花様方言 Vol.201 <幕府と大名とサンダル>

2020/11/11

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 『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』という本があって、次の2つの文が表す内容は「同じ」か、「異なる」か、という問題が載っている。「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」。当然「異なる」が正解だが、全国の中学生857人の正答率は57%だったそうだ。「2択問題の正答率は当てずっぽうでも50%になることを考えれば、驚異的な低さ」と、本の紹介者は衝撃を受けている。

 大人でも読解力のない人が多いらしいことが問題になっているようで、それが「ネット社会の到来で一気に可視化された」と、《日本の生産性を引き下げている「文章を読めない人」》という記事の筆者は指摘する。「今週は暑かったのでうちの会社はサンダル出勤もOKだった」というツイッターのつぶやきに対して「何故今週だけはOKなんだ?」「サンダル無い人は来るなって?」「暑いならともかく基本はNGだろ」といった反応(クソリプ)が一定数返ってくる、とのこと。1つのキーワード(サンダル出勤OK)だけに反応し、「文脈をまったく無視したコメントが無数にアップされている。文章を読んでいない、あるいは読めていない人が一定数存在しているのは間違いない」。なるほど、そりゃ確かに困ったことだ。

 

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 冒頭の幕府の問題なら、幕府、1639年、追放、大名、などの「キーワード」にしか目が行ってない、ということだろうか。文脈がまったく読めてない、と。だが、もし次のような2つの文だったらどうだろう。「鬼舞辻無惨は、大正時代、竈門炭治郎の家族を殺し、禰豆子には血液の呪いをかけた」「大正時代、竈門炭治郎の家族は殺され、鬼舞辻無惨は禰豆子から血液の呪いをかけられた」。やはり「異なる」が正解だが、これなら全国の中学生の正解率は9割をこえるだろう。だから、幕府がポルトガル人を追放して大名に沿岸の警備を命じる話の漫画を作ってアニメも大ヒットさせれば、この問題の正解率も飛躍的に向上するはずだ。

 脳は、興味のあることや慣れ親しんだことにはよく反応するが、興味のないことやどうでもいいと思うことには反応が鈍い。脳には、ブローカ野とかウェルニッケ野とか、言語処理に深くかかわっている領域がある。障害などでその中の特定の部位の機能が失われると、例えば受動態の理解ができなくなるなどの不都合が起きる。すなわち「猟師がトラを殺した」という文は完全に理解できるが、「猟師がトラに殺された」という文になると、どっちがどっちを殺したのか、まったくわからなくなる。「幕府は大名から命じられた」がわからなかった43%の中学生は、まさか全員が脳に障害を負っているわけではあるまい。幕府だの大名だの沿岸の警備だの、興味のない文を見せられたので脳が一時的にサボっていたのだ。

 地球上の言語のうち、受動態を持つのはおよそ半数弱と思われる。バスク語やチベット語、コーカサス諸語などが受動態のない言語として有名だが(って、そんなの知らねえよ普通)、これらはまた「能格」を持つ言語として有名でもある。(能格の話まではここではしません。)フィンランド語の受動態では、「トラが猟師に撃たれた」とは言えない。行為者(猟師に)を表すことができず、「トラが撃たれた」としか言えないのだ。(行為者を表したければ「猟師がトラを撃った」と能動態で言えば済む。「人が殺されている」「宝石が盗まれた」のように、犯人がわからなければ、こう言うのが普通。)一概に受動態といっても、その実態は言語によって様々。広東語では、逆に、行為者は必ず表されなくてはならない。彼は殺された=「佢畀人殺咗」(彼は人に殺された)。犯人がわからなくても、あるいは犯人の名前をあえて言いたくなくても、とにかく「人に」殺された。「人」を抜かして「×佢畀殺咗」とは言えないのだ。対して北京語では「他被殺了」と、行為者を抜いた言い方が可能である。このように漢語は文法の基本的構造にも地域的な違いがある。上海語では、「被、畀」(~された)に相当する指標(上海語では「撥」)をも省略することができる。伊撥送進了手術間→伊送進了手術間(彼は手術室に送り込まれた)。ゼロ形態による、究極の受動態だ。

 日本語は自動詞も受動態になり得る。雨に降られた。子供に泣かれた。女房に死なれた。こういうのはなかなか珍しい。ドイツ語などにも自動詞の受動態はあるが、日本語の受動態(受身)は、概して「不都合」や「迷惑」を表す。女房に逃げられる。クソリプを送りつけられる。比較してみよう、「顔を見られる、写真をとられる」は迷惑だが「見てもらえる、とってもらえる」なら迷惑ではない。「ほめられる」のようなうれしい受動態は少なく、また、無生物が主語になる「橋がかけられる」とか「歴史が作られる」のような表現は明治以降に西洋語からの翻訳で生まれた。英語では、I was born in~、「生まれる」が受動態構造になっている。この「born」が「bear」(持ち運ぶ)の過去分詞であることはあまり意識されてない。「母親のお腹の中で持ち運ばれた」、それとも、コウノトリに運ばれてきた(?)。実は日本語の「生まれる」も「生む」の受動態の形をしている。平安時代にはすでに「生まる」があった。奈良時代以前からある「自発」(自然にそうなることを表す)と関連がある。聞く→聞こゆ(聞こえる)→聞かれる。自発、可能、受身、婉曲、尊敬、これらが起源的にもかかわりあっている。…「読解力不足」のテーマが、いつのまにか受動態の話になった。やはり脳は、興味あることのほうによく反応する。

大沢ぴかぴ

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