花様方言 Vol.204 <「懶音問題」の問題>

2020/12/23

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 「懶」は「なまける」という意味である。日本語では「おこたる」という訓がある。広東語で「懶音」といったら次のような現象を指す。[l]と[n]の混同(你[nei]→[lei])。[ŋ]とゼロ声母の混同(牛[ŋau]→[au]、鴨[aːp]→[ŋaːp])。[kw][kʰw]→[k][kʰ(]狂[kʰwɔːŋ]、呉、五(]ːm[→]ːŋ[。)]ŋːɔʰk[→誤など。cf.唔[mː])。はじめの二つはあらゆる広東語教本に載っている。これを知らなければ初歩的な聞き取りにも苦労するだろう。三つ目のようなのは、香港人がよく話題にする。ネイティブスピーカーにも意識されやすい、話題性(?)のある懶音だ。四つ目のは、日本で出た数ある広東語の教本に、なぜかほとんど載せられてなかった。広東語の達人として有名だったある人物がこれの存在をまったく認知していなかったことが印象的だ。

 オーストラリアの「シドニー」は、最近は「悉尼」と書かれるが以前は「雪梨」だった。「尼」は[nei]、「梨」は[lei]。「Sydney」の「n」が、「L」音の「梨」で表わされた。台湾では今も「雪梨」である。[n]が[l]になるのは広東語だけではない。華南で広く見られる、まったく珍しくない音韻変化だ。金庸の『鹿鼎記』に、韋小寶が、捕虜にしたロシア兵を「霞舒尼克」にして食ってやると脅す場面がある。これは「шашлык」(shashlik、シャシリク)という、ケバブに似たロシア料理のことだ。「L」音だが、「N」音の字「尼」で書かれている。韋小寶は南京の近く、揚州の生まれである。南京の近辺も[n]が[l]になる地域だが、混同、などという次元ではない。南京語を含む、あの地域の江淮官話と呼ばれる言葉では[n]と[l]はまったく区別されない。それでシャシリクの「li」に「尼」があてられた。…って、韋小寶は字が読めないし書けないんじゃないのかって?(そもそも韋小寶は架空の人物です。)ともあれ香港の読者には「尼」でじゅうぶんです。

 広東語も将来[n][l]が完全に区別を失ったとしたら、「你」や「尼」は[lei]ではなく[nei]だ、と説教する人はいなくなるかもしれない。これらの音韻変化が「懶音」と呼ばれるゆえんは、正しい発音を「おこたっている」(懶)「なまけた発音」と、一部の知識人たちに受け取られているからだ。言語は、より発音しやすい方向に変化する性質を持っている。できるだけ楽をしようという、人類の持つ普遍的な性質で、悪く言えば「なまけ」だが良く言えば「経済性の追求」である。言葉を変化させてはいけないと言うのなら、漢民族は殷の時代の甲骨文の言葉を話さなければならず、ヨーロッパ人はラテン語を使わなければならない。日本人は関西では古事記日本書紀の言葉を話さなければならず、それ以外の地域では縄文語を話さなければならない。と、いうことになってしまう。

 フランスの言語学者アントワーヌ・メイエは百年前、『ヨーロッパの言語』の序論でこう書いている。「言語は意識的であれ無意識的であれ、人間集団全体の合意によってのみ変化しうる。」「各個人は言語のあらゆる改変に対して、ときにささやかに、多くの場合は不屈の抵抗を示す。」「それぞれの集団にはいくつもの話し方があるもので、個人はたいていそのうちのいずれかを自由に選ぶ。」香港のアナウンサーは、個人差はあるが、おおむね「懶音」を使う。香港の民衆の意識的または無意識的な「合意」があるからだ。「寒冷」[hɔːnlaːŋ]→[hɔːnnaːŋ]のようなのも使う。主に若者が使う「學生」[hɔːksaːŋ]→[hɔːtsaːn]のようなのは「合意」を得られているとは言い難いため、ささやかな「抵抗」にあい、この発音を選ばない人も多い。広東語を香港の若者っぽく話したいのであれば、がんばって練習しなければならない。訓練をおこたったり、なまけたりしていては「なまけた音」(懶音)は使いこなせない。

 

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 「尖沙咀」(TsimShaTsui)を「ツィム・シャー・ツョイ」のように言う香港人はもういない。だから誰もが言う「チム・サー・チョイ」を「懶音」だと思う人もいない。英語表記に昔の発音のなごりを残すのみだ。日本では、NHKのアナウンサーが日本語の改変に対して不屈の抵抗を続けている。彼らの使う日本語はもはや、アナウンサー弁とでも呼ぶべき一種の社会方言だ。もし日常あんな話し方をしていたら、きっと友だちができないだろう。もしアナウンサーではなく外国人が「十本」を「じっぽん」と言ったとしたら、「じゅっぽん」と直されるに決まってる。先日のニュースでは「ごじっへ―ほーメートル」(50平方メートル)というのを聞いた。さぞかし発音しにくかったろう、と思うけど。

 内閣告示「現代仮名遣い」に、こういうことが書いてある。「本文」の「第2」の4【動詞の「いう(言)」は、「いう」と書く。】実際は、多くの人が「ゆう」とゆっている。「ゆう」と言ってはダメ、と教師に厳しく言われたとゆう人を知っているが、「いう」と言え、とは書かれてない。(「第2」とは「表記の慣習を尊重」した「特例」である。)「言う」は、いふ→いう→ゆう、と変化してきた。書くときは、このうちの「いう」を使いましょう、とゆうだけのことだ。(しかも「一般の社会生活において」である。芸術その他専門分野や個々人の表記にまでは及ばない。)「三角形」も「さんかくけい」と書いて、発音は「さんかっけー」でいいのである。今の日本政府は「書き方」に一定の基準を設けても、個々人や各地域の「言い方」(発音の違い)に干渉する気はない。ノルウェーのように方言の使用が法律で保障されている国もあるし、フランスでも先日「なまりに基づく差別」を禁止する法案が可決された。NHKアナウンサーの浮世離れした発音にも寛容であるべき、なのだろう

大沢ぴかぴ

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