花様方言 大家好!

2014/06/10

大家好福山雅治、来港。今回はコンサートです。香港に来る日本の芸能人は広東語で「大家好!」(みなさんこんにちは)とあいさつするのが恒例となっています。通訳やコーディネーターの発音を耳で聞いたとおり覚えて言っているものと思われ、みんな上手な発音で「ターイカーホウ」と言います。これが、自分で広東語の教本などを買って読んだりすると、「ダーイガーホウ」と、濁音で覚えてしまうことがあります。多くの本に「Daai6 ga1 hou2.」のように書いてあるからです。

広東語をカナ表記する場合、濁点を付けるか付けないかの問題は厄介です。どちらでもよく、かつ、どちらでもダメだからです。日本語は有声音(濁音)か無声音(清音)かの違いが言葉の意味を区別しますが、広東語はそうではなく、有気音か無気音かの違いが意味を分けます。「音声と音素」の問題であり、言語学では基礎の基礎の基礎の基礎…なのですが、一般大衆にはなかなか理解してもらえない、とてつもなくハードルの高い基礎なのです。日本では1990年代前半の香港ブームのときに雨後のタケノコの如く多くの香港関連書籍が出版され、広東語の学習書もたくさん出ています。まさに玉石混交、これ1冊で事足れりというものはありませんが、秀作もいくつかあります。

『広東語の通になるための-香港・広東語会話「決まり文句」600』(1991、高木百合子)には、こうあります。便宜上“b”と書いているが、「無気音」は濁音ではないので[bo]も[ボ]とは言わず、息をできるだけ出さないようにして[ポ]と言う。…濁音に近く聞こえるものにはあえて濁音のルビをふったが、実際には濁音ではないということを覚えておいてほしい。この本の表記で「大家」(みなさん)は「ターイカー」。『教養のための広東語』(1992、辻伸久)では、広東語の無気音を表すb-、d-、g-、j-のアルファベットは、日本語ローマ字や英語では有声音(濁音)に用いられますが、それと混同しないよう注意して下さい。この本は無気音の表記に濁音の「カタカナ補助記号」を使っていますが、前述のごとく、広東語にはこれらの有声音(濁音)は存在しません!と、「!」付きで念を押しています。香港人の書いたものでは『日広辞典』(1992、賴玉華)に、無気音の場合は、その音が日本語の濁音とは異なるため、発音する際に声帯の振動が伴わないので、…注意して下さい。サウンド・スペクトログラフなどの装置を使って音響分析をすると言語音の周波数などがわかり、広東語の無気音がいかに濁音と違うか(すなわち声帯の振動の程度)が客観的に確認できます。しかしそれより重要なのは、フォノ・ラリンゴグラフなどで測定した日本語の清音の「息」の量。語頭の「か」(菓子の「か」など)の場合、なんと800ml/sを優に超える数値であり、日本人は清音を発音するとき無意識のうちにすさまじい量の空気を放出していることがわかります。これが広東語の話者には有気音に聞こえます。「大家」を「ダーイガー」だとする理由のひとつは、日本人が「ターイカー」と言うと有気音の「太卡」のように聞こえてしまうからです。『日語發音』(1992、李活雄)にも、我々(香港人)は清音・濁音を聞き分ける能力が低い。無意識のうちに「息の放出の有無」(有気・無気)を区別の基準にしている。我々の母語である広東語の世界では、pとbの違いは、有気か無気かにあるのだ。そして、香港人が「広東語の耳」で日本語を聞いたり、日本人が「日本語の耳」で広東語を聞いたりしたら、混乱を免れない。これすなわち、全ての結論となりますね。ごもっとも。

広東語話者とは逆に、日本人は有気音・無気音を聞き分ける能力が低くて、特に、無気音の発音が困難です。『教養の~』の中で辻博士も、音声がご専門だけあって、息・空気を止めることは、出すことよりも難しいとして、無気音の説明に多くの文字を費やしておられます。声門を閉じることも暗に指摘していてすばらしいですが、声門を閉じろと言われて「はい、閉じます」と対応できる人はそうそういませんから。尚、この問題は基本的には北京語とも共通していて、カナ表記については、習近平国家主席のふりがなを朝日新聞は「シーチンピン」とし、読売は「シージンピン」です。(毎日は「しゅうきんぺい」、産経と日経はふりがな無し。)無理に統一しなくてもいい問題のようで、幸いです。

英米人にとっても、広東語のb-、d-、g-・・・の認知は非常に困難(『広東語文法』1994、スティーブン・マシューズ他)で、be「i 与える」のb-は英語話者にとっては、p-にもb-にも認識されるのです。その証拠が、イギリス人の定めた、香港の地名等の英語表記に残っています。「大埔」は「Tai Po」、隣の駅名「太和」は「Tai Wo」。聞き分けられないものは書き分けもせず。「大」も「太」も共に「Tai」。日本人が「light」も「right」も「ライト」とするのと同じことです。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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