香港ダムに命を懸けた日本企業ストーリー3

2015/03/24

●前回までのあらすじ〜
1960年代初頭の香港はそれまでに類を見ない大渇水に見舞われた。香港政庁はダムなど貯水施設を建設することを決定し、国際入札に勝ち抜いた日本の建設会社と多くの日本人がこの公共事業に関わり、香港の水不足解消に尽力した。
ダム建設に関わっていた西松建設の機械課長藤沢功氏は、取水塔のバルブ検査の際、縄梯子が切れ転落。不慮の事故死を遂げた。しかし、その藤沢氏の生前には、ある女との数奇な出会いが存在していた・・・。

男女の挿絵

ダム建設工事が始まった頃、香港への先発隊だった藤沢や伊藤が、「若い者もこれから多数来ることだからバーやダンスホールの相場も調べておかないとな・・・」と思いつき、九龍のダンスホールを下見に行った時、こんなことがあった。とある店でダンサーのメンバー表の中から「日」とマークのある女を含め4人呼んだ。「イラッシャイマセ」と「日」の年増女が他の女3人に座るように指示した。2人はニコニコとすぐに掛けたが、一人だけ濃緑のチャイナドレスを硬ばらせて立ったままでいた。「日」の女が広東語で着席をするようにと、低くキツイ詰問の言葉を投げつけたが、その娘は握り締めた両手の拳をギュッと胸に当てて頬を硬ばらせ唇を噛んで立っている。女が堪り兼ねてその娘の手を取り、少し離れたカーテンの陰に行った。小声でだったが「我唔中意日本仔!」̶日本のヤツらは嫌いです!と少女が憎しみの口調で吐き出すように言ったのが聞こえた。(何かがある。いや、何かがあったのだ。)藤沢は思った。
それからしばらくしたある日、藤沢は2人の部下と九龍の機械部品店で買い物をした後、ライオンロックの山裾のハイウェイを通ってシャーティン(沙田)に向かっていた。一台の黒塗りの高級車が藤沢達の車をハイスピードで追い越し、カーブを曲がって行った。藤沢達の車もカーブを曲がろうとした時、前方で急ブレーキ音と、男の子の悲鳴が聞こえた。カーブを曲がると黒い車が体勢を立て直し、猛スピードで走り去った。黒い車の去ったあとに、水色のぼろきれが投げ出されていた。ぼろきれは、引き裂くような悲鳴をあげた。見るとそれは、跳ね飛ばされ、シャツとズボンを引き裂かれた、10歳ぐらいの少年だった。山で摘んできたのか、赤や紫の野の草花を握り締めていた。発破の事故の時の経験があったので一人が近くの電話で警察に連絡を入れた。その間に家族に連絡を取ろうと少年に聞くが、両親は亡くなって、病気の祖母と叔母さんと3人暮らしだと言う。叔母さんの勤務先の電話を聞くが少年は泣くばかりで答えなかった。そのうち、警官が救急車で到着した。現場確認と藤沢ら3人の住所、名前を確認した後、誰か一人病院まで同行してほしいと言う。少年は警官の質問に答えて叔母さんの名前と電話番号を警官の耳元に囁いたらしかった。警察からの連絡で、少年はすぐに手術室に運ばれた。事故の事情を警察に伝えた藤沢は、「もう帰って頂いて結構です。」と言う警官に対し、「手術が済むまで待ちます。」と帰ろうとしなかった。待つ間、コーラの空き瓶に少年が握っていた草花を挿し、サイドテーブルに置いた。藤沢はこの工事に派遣される時、「現地の人には何一つ迷惑を掛けないのだ。できるだけ誠意を尽くすのだ・・・」そう心に誓って日本を発って来た。
手術が済み、脚にギブスをはめられ、丸太のように包帯を巻かれた少年が病室に帰ってきた時、若いワンピースの女が少年のベッドに駆けつけた。その顔を見て藤沢はあっと声を呑んだ。あの晩、ダンスホールで「日本のヤツらは嫌い・・・」と憎しみを込めて叫んだあの少女ではないか。「この日本人たちが助けてくれたのだ。礼を言いなさい。」警官が女に言った。「日本人が?!」はじかれたように立って、キッと藤沢を見つめる目は、まさしくあの夜の若いダンサーの激しい目だった。「日本人が・・・この子を助けてくれたのですか?」「そうだよ。ほかの車が撥ねて逃げたのを、この日本人たちが助けてくれたんだよ。警察に電話をしたり、怪我の応急手当をしてくれたり・・・」広東語の会話だが、藤沢には二人の身振りと雰囲気でおおよそ判った。大きな目を見開いて、疑いと当惑で藤沢見つめる表情のたゆたいが、言葉より正確に、女の心の動揺を物語っていた。
「點解・・・我唔信」̶どうして・・・信じられない、と女は俯いて、消えるような声でつぶやいた。

「信じられないって̶本当だよ。さあ、礼を言うんだ。」若い警官は少しムッとした様子であった。「ネヴァ、マイン」藤沢は微笑を見せて手を振った。「この子は、その花を握って撥ねられていた。花は多分あなたへのプレゼントだったのでしょう。どうか大切に看護してあげて下さい。」チラッと花を見た女の目には、涙が溢れ、その涙は不信と憎悪の光を希釈していった。けれどもそれが癖なのか、いつかの夜と同じように、胸の辺りで二つの拳を握り締めて、女はなおも強情に唇を噛んで、漏れ出ようとする嗚咽に耐えている。とても礼などを述べる気配ではなかった。「グッバイ。あなたたちの幸運を祈る。」藤沢は会釈をして病室を出た。藤沢の背後で扉が閉まった瞬間、藤沢は女の泣き声が、堰を切るのを聞いた。

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