花樣方言 膨大な数の広東語翻訳

2015/08/03

<比卡超>

ポケモン「第2のポケモン」とも評される『妖怪ウォッチ』。このまま人気が続けば、妖怪キャラの数はいずれポケモンの720を抜くのでしょうか。720ものポケモンを作り出した方々はすごいですが、これらの名前をいちいち翻訳した諸外国の担当者の皆様もご苦労様です。香港は、とめどなく作り出される日本の怪獣、怪人、妖怪の名前、ドラえもんの道具の名前などを広東語に翻訳してきた、40年を超える歴史があります。
香港に入った日本語はとても多いです。しかしそのほとんどは、刺身→チーサン、味之素→メイチーソウ、物語→マッユー、のように広東語漢字音で読まれ、卡拉OK(カラオケ)、烏冬(うどん)、wasabi(わさび)のような日本語本来の音を表したものは、台湾と違って、数えるほどしかありません。ポケモンの名前は、フシギダネ→奇異種子、ヒトカゲ→小火龍、のように多くが意訳ですが、音訳もかなりあって、日本語→広東語の音訳の宝庫といえます。
日本語の「母音の無声化」が音訳に反映されたとおぼしき、『妖怪ウォッチ』のツチノコ→支樂哥(チノコ)のような例がポケモンにもないかと思って探してみたところ、ありました、エビワラーが「比華拉」。「エ」が落ちています。母音の無声化が著しい江戸弁などでは第1音節が低アクセントの場合、赤坂→かさか、いらっしゃい→らっしゃい、ふざけんな→ざけんな、のようになるのです。エビワラーと対を成すポケモン、サワムラーは「沙古拉」、これも曲者。誤訳、珍訳が跋扈するアニメ翻訳の世界、これは「ワ」を「ク」と間違えたため「古」(クー)になったのでは…と疑いたくなります。それとも、わざと「サクラ」としたかったのでしょうか。残念ながら真相はわかりません。え?…言語学ではポケモンも研究するのかって?…している人もいます。私?…私は、してませんが。
フシギダネは香港で「奇異種子」ですが台湾では「妙蛙種子」。香港と台湾で訳し方の違うものが結構あります。なによりピカチュウが、香港では「比卡超」、台湾と中国大陸では「皮卡丘」。なるべく「ピカチュウ」に近い音になるよう、広東語と北京語で別の字が選ばれています。「ピ」の部分、北京語では有気音の「皮」であるのに対して、広東語では無気音の「比」。なぜでしょう。有気音・無気音のおさらいになりますが、日本人が「ピカチュウ」と言った場合、かなり高い確率で「ピ」は有気音になります。アルファベットのつづりは全世界で「Pikachu」に統一されているそうですが、「p」ならば普通、有気音の漢字で転写されます。ピカチュウは声も世界共通、大谷育江さんの「ピカピカ~」を使うことになっているそうで、香港も同じです。この「ピ」、よく聞くと大部分、無気音です。しかも、無気音を通り越して、声帯の振動開始がかなり早まって濁音「ビ」に近くなったりしています。ピカチュウの声のために、プロの声優である大谷さんが作り出した独特の発音ですね。香港の「比」はこの音がうつしだされたものなのでしょうか。これも真相はわかりません。
ただし、次の例を見て下さい。チーズ「芝士」、クリーム「忌廉」、トースト「多士」、コーヒー「咖啡」、カレー「咖喱」、カツレツ「吉列」、タクシー「的士」、パンチ(フルーツポンチ)「賓治」。比較的早い時期に英語から広東語に入った外来語です。有気音になってしかるべきところに無気音の字があてられています。北京語では、チーズ「起司」、クリーム「淇淋」、トースト「吐司」のように有気音、コーヒーも「咖啡」と書きますが有気音で発音します。カラオケ「卡拉OK」のような新しい語や地名のカラチ「卡拉奇」のように北京語式音訳の広東語読みでは有気音ですが、本来、広東語では無気音の字が多くあてられていたのです(ちなみにパキスタンの「カラチ」、現地のシンド語やウルドゥー語では無気音)。広東語では、カラカラは有気音「卡拉卡拉」、ガラガラは無気音「格拉格拉」…といった杓子定規なあて方がすべてではない、ということなのです。尚、かなりレアですが「比」を有気音で読む語もあります。「皋比」、昔の武将が座った虎皮の敷物のこと。大谷さんの「ピカピカ~」もたまに有気音になることがありますが、ご出身は東京だそうで、東京の人なら自然に起こる有気音化です。主に無気音でまれに有気音という「比」を使った「比卡超」は、大谷さんのピカチュウにうってつけですね。
エビワラーとサワムラーは実在のプロボクサー海老原博幸とキックボクサー沢村忠がモデルです。音訳せずに、エビワラー「海老原」、サワムラー「澤村」でもおもしろかったと思います。エビワラーの英語名はHitmonchan、サワムラーはHitmonlee、ドイツ語名はNockchanとKicklee。これらの「chan」はジャッキー・チェン(Chan)から、「lee」はブルース・リー(Lee)から取っています。ちなみにエビを「海老」と書くのは昔の日本人のウイットで、香港でもまだほとんど通じないはずです。「蛯」はもっと通じません。筆談のときは「蝦」と書きましょう。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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