花樣方言 君の飛騨弁は。

2016/12/19

彗星「彗星が落ちよる。」

「彗星が落ちとる。」

この違い、わかりますか? 日本人には両者の意味の違いがわかる人とわからない人と、2種類います。

分析すると、前者は、落ち+おる。後者は、落ちて+おる。まず、「おる」と「いる」の境界ですが、これは浜名湖~糸魚川を結ぶ線になります。旧文部省が、「越中飛騨美濃三河」の東側に「境界線」があって「東部方言」と「西部方言」に分かれる、と「全国ノ言語区域」の調査報告を発表したのが明治39年。しかしこういう「方言東西論」めいたものは、虚構です。実際の方言区分はそんなに単純なものではないのです。

日本の方言は、「東西論」ではなく、「新旧論」としてとらえるべき性質のものです。日本語は千数百年来、新しい言葉は畿内(京都近辺)で生まれ、徐々に西と東に伝播していく、という構図で発展してきました。東日本は中部の険しい山や大きな川によって言葉の東進が妨げられ、特に基礎的な文法要素などが広範囲において西日本と違っているため、言葉の新旧の違いがあたかも東西の差であるかのような印象を与えているのです。枕草子に出てくる「たるひ」(つらら)、源氏物語に出てくる「むらさめ」(夕立)、万葉集の「なるかみ」(雷)など、こういう古い言葉は東北や九州など遠隔地に伝わって残っているのであって、現在の京都弁をいにしえの万葉言葉だなどと思い込むのはとんでもない錯覚。「おでん」も「おだい」も「おまく」も後世に「田楽」「大根」「枕」からできた新しい言葉。舞妓さんの「~どす」も150年程度の歴史しかおへんのどす。

冒頭の二つの文は、「落ちよる」が現在進行形で、今まさに落ちている最中、という意味。「落ちとる」は完了形で、すでに地上に落ちている状態。地域によって、~よる/~ちょる、~よう/~とう、~ゆう/~ちゅう、~よん/~とん、のようなバリエーションはありますが基本的に西日本の多くの地域では言い分けが可能です。東日本ではどちらも「落ちている(落ちてる)」となり、もとよりこの形式では進行/完了の違い(アスペクトといいます)を区別できません。アスペクトを区別できる言葉のうち最も東に位置するのが飛騨弁。『君の名は。』では、彗星が割れて、その片割れが飛騨の山奥に落ちてきます。飛騨の人たちはそれを見て、「落ちよる」(落下中)、また、落下した後の様子を見ては、「落ちとる」…のように言い分けてしかるべきなのですが、残念ながら映画の飛騨弁には、こういった区別がありません。同じ岐阜県でも県南部の美濃弁はアスペクトの区別をほとんど失っていて、飛騨弁も、南飛騨のほうでは美濃弁の影響が強く、やはり区別を失いつつあります。『君の名は。』の方言監修は声優のかとう有花さん(土建屋の奥さんと高山ラーメンの店のおかみさんの声で出演してます)。かとうさんの故郷は、下呂温泉で有名な南飛騨の下呂町。区別の希薄な地域ですね、まさに。区別が失われる傾向は西日本全般において見られることなのですが、何より京都大阪がとうの昔から、前前前世の頃から(それっていつ頃だよ)、区別していません。飛騨弁は関西の東側にあって西日本から切り離された、今やアスペクトの孤島となっているのです。アスペクトの、カタワレ。

「西日本」であっても京都弁と大阪弁は「いる」を使います。丁寧または普通の言い方は「いる」。対して、品のない、見下した言い方が「おる」。アスペクトとは無関係で、待遇法として「いる/おる」が使い分けられているのです。名古屋や広島や奈良など関西の周囲の人たちにとっては普通の言い方である「何しとる」のような表現が京阪の人たちには軽蔑の気持ちを含んだ言い回しのように聞こえてしまうことがあるのはこのためです。明石家さんまの「知っとるけー!」は京阪の人には特に威嚇と侮辱が込められた言葉として強く響きます。東京では「西日本方言」の「おる」が、「存じております」のように必ず敬語表現としてのみ使われるのは面白い現象です。江戸時代から明治まで上方言葉を丁寧語の規範として取り入れてきたことのなごりで、更に、御所言葉の「ありがとう」に「ございます」を付けて作った「ありがとうございます」は和製英語ならぬ東京製京都語。本場の御所言葉の伝統を今も引き継ぐ京都大聖寺などでは「ありがとう」が正式。「ありがとうございます」とは言いません。

♪ロンドン橋落ちた~の♪London Bridge is falling down~は今まさに橋は落ちている最中であり、「落ちよる」。多くの人が(特にアメリカでは)「falling down」と歌いますが本来イギリスの元歌では「broken down」です。橋はすでに落ちているので、「落ちとる」。

大沢ぴかぴ

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