「沙面島」 国際都市・広州―“礎”の地

2017/06/07

コ ロ ニ アル風建築佇む

沙面島

宋や元の時代から貿易の拠点として活躍した広州。 長い歴史の中で、 多種多様な文化・物品・人々がこの地を行き交ってきた。それゆえ、 歴史の移り変わりが街のなかに自然と刻み込まれてきた。 沙面島も広州の一時代を今に伝える貴重な“遺産”だ。 趣きのある洋館が残り南国の老木が佇む。 ここには、 長い年月を経て造り出されたこの小さな島だけがもつ閑静で文化的な雰囲気が漂う。

沙面堂

沙面堂

沙面島の歴史:清の時代、 広州は外国との貿易が許された唯一 の港として発展した。 当時、 外国の公館などの設置は広州にしか認めらていなかった。 そのため、 清は外国人の保護 ・ 隔離を目的として、 この地に外国人居住区を設置した。 その後、 第一次アヘン戦争、 第二次アヘン戦争 (アロー戦争) を経て、 戦勝国となったイギリスとフランスの租界地に定められた。 英仏両国は、 珠江の堆積地だった場所を埋め立て、 さらに運河開削によって島を築造、 以後 「沙面」 と呼ばれるようになった。 当時、 島の西方5分の4がイギリス、 残りがフランスの租界として設定されていた。

時代は流れ1930年代、 反英運動に面したイギリスは多くの租界を手放したが、 天津とここ沙面だけは維持し続けた。 そして、 太平洋戦争勃発を境に日本軍が英租界を接収管理、 沙面では行政権を中国に移管した上で現地日本軍特務機関が監督するようになった。 こうした出来事を経て、 1943年、 租界はようやく中国に完全返還されることになり、 80年余りにわたった沙面租界は姿を消した。

島の様子と建築群:島の築造と同時に、 道路が建設され12区画に分割されたため、 現在でも道と緑地が島の大部分を占めている。20世紀初頭までには、 沙面租界の公共施設はほぼ完備され、 領事館、 教会堂、 銀行、 郵便局、 電信局、 商社、 病院、 ホテル、 住宅などの建築、 クラブ、 バー、テニスコート、 プールなどのレジャー施設も造られた。 これらの施設は、主に各国領事館や銀行 ・商社の役員と外国の税務官や宣教師に利用されたといわれている。 租界当時は 「イギリス橋」 「フランス橋」 と称された二本の橋だけが沙面島と岸を結ぶルートだった。

現在、 沙面島にはヨーロッパ風の建物が150ヶ所以上残され、 広州で最も異国情緒に満ちた建築群がある。 樹木がうっそうと茂るなか、 西洋風デザインの街灯、 彫刻、 東屋、 花壇、 木製の椅子、 噴水池などがアクセントを添える。島には交通制限が実施されているため、 空気も清々しい。 生活スタイルやリズムもほかの場所とは違い、 道の両側にはカフェ、 レストラン、バーなどが並び、 街路には上品なテーブルが並べられ、 撮影なども行われている。

【広東外事博物館】

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様式はバロック式。2階建の建物は、中華民国時代の旧仏駐広州領事館で、1890年に建造された。館内には、世界122の友好都市から広東省へ贈られた200点以上の重要な品物が展示されている。100年前の沙面を写した貴重な写真十数点も展示されており、辮髪に長衣をまとった洋務通訳(英・仏領事エリアを行き来した通訳たち)を写した貴重な写真も拝観できる。

沙面島
アクセス:地下鉄1号線「黄沙」駅D出口から左側にある歩道橋を渡れば到着

 

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