花樣語言 Vol.118 究極の書きかえ

2017/06/21

「訪問」の「モン」の字が「問」になってるので直しときます、ワープロの打ち間違いだろうけど、正しくは「門」ですから。…かれこれ20年前、担当の編集者にこう指摘されたことがあります。「訪 問」の「モン」は「問」で いいんですけど、と反論したら、職歴40年というベテラン編集者は「まさか」と疑いながら国語辞典のページをめくって、そして、うなりました。…ほんとだ、これは驚いた…。

花樣597

中国語で「訪問」は「fǎngwèn」、「門」は「mén」。広東語でも「問」(マン)と「門」(ムーン)。同音ではないので、中国語を知っていれば間違えようがないのです。人の家の「門」を入って「訪門」、という発想なのでしょうが、「訪問」は、「訪ねる」と「問う」(これも「たずねる」の意味)の連語による熟語なので
す。繰り返しますが、人が字を間違えるときは基本的に字のほうに問題があります。日本人にとって「訪問」と書かなければならない絶対的な理由は存在しませんし、「訪問」と書いたところで何の得もありません。多くの場合、話をするとき、いちいち漢字を思い浮かべていないのです。頭の中では「ホーモン」であり、「訪門」だと思っていても正しく意味は伝わります。廻転→回転、叛乱→反乱、庖丁→包丁、諷刺→風刺、屍体→死体、などがよくて「訪問→訪門」がだめだということのただ一つの理由は、「問」が当用漢字であった、ということ。だから、書きかえられなかったのです。

当用漢字(現在は常用漢字)だけでも、野性と野生、変形と変型、意義と異議、清算と精算、鑑賞と観賞、監査と鑑査、同志と同士、改定と改訂、競争と競走、実態と実体、回顧と懐古、(前人)未踏と未到…、件の「同音の漢字による書きかえ」さえも遥かに上回る、異状な、いや、異常な数の、まぎらわしい同音語があります。この責任は一体誰が取ってくれるのでしょう。「訪問」を絶対に「訪門」と間違えることのない中国人でも、中国語で同音であれば、やはり間違えるのです。いい例が「権利」と「権力」で、これは北京語音でいずれも「quánlì」となってしまうので、面白いように間違えます。もしかしたら一部の人たちの頭の中ではすでに意味的にも融合が起こっているかもしれません。日本人の多くが「野性」と「野生」を意味的にほとんど区別してないのと同じように。

現在のキーボード機能では「ほうもん」と打てば「訪問」「法門」「砲門」と出てきて、選択肢にない「訪門」のような表記は簡単にはできないようになっています。よって、手書きの時代に多かった、�無我無中(○無我夢中)、�難業苦業(○難行苦行)、�脳殺(○悩殺)、�誤弊(○語弊)のような誤字はめっきり減ったのですが、これらの正しい字をIMEの変換障害か何かだと思うやからがいるらしくて、わざわざ「語弊」の「語」を消して「誤」と打ち直したりするのです。わたくしも昨年、「異なって」を校正の段階で「異って」と、「な」を消された経験があります。「送り仮名の付け方」(平成22年改定、内閣告示)の通則1例外(3)で「ことなる」は「異なる」だとされていて、「異って」という異なった変換はできないのです。7年ぐらい前に、「じゅず」は「珠数」ではなく「数珠」です、嘘だと思ったら「じゅず」と打ってみてください、「数珠」と出ます、…と書いたことがあるのですが、なんと現在は「珠数」が変換できるようになっています。よっぽど多くの人に「じゅず」は「珠数」だと思われていたのですね。「能天気」に対する「脳天気」なども同じ。やはり変換できます。これぐらい強い信念があれば「訪門」も実現していたかもしれません。残念でしたね。

日本式の漢字は、中華圏の一部の人たちには、逆に、楽しまれて(?)います。文語的な熟語であり日常あまり使われることのなかった「究極」は15年ぐらい前から「究極の攻略法」「究極のラーメン」のような究極の使われ方が始まって、一気に広まりました。中華圏で「究極」をこのまま使っているのは圧倒的にゲームなどサブカル系の世界で、一般には「終極」と翻訳されています。「窮極」ならば中国の古典に出てくるのですが、まさか「究極」が「窮極」の書きかえだとは夢にも思わないのでしょうね、今の日本人も知りませんし。「究極」を多く使った作家に寺田寅彦がいて、「窮極」にこだわった太宰治や宮本百合子などと対照的です。「窮」は常用漢字ですが、書きかえに成功。「究極」の勝利。

「崩壞」も、「作畫(画)崩壞」や「崩壞學園」(崩坏学园)などゲームやアニメ界で広く使われています。小説版『君の名は。』の漢語訳にも、…像沙之城堡崩壞般…(原文は「…砂の城を崩すように…」)と出てきますが、地質学用語の「崩壞作用」(マスウェイスティング。土石流や山崩れ、地滑りなどのこと)や心理学の「完形崩壞」(ゲシュタルト崩壊)など、学術用語もあります(原子核の崩壊は「衰變」)。日本で「崩潰」の書きかえに使われたこの「崩壊」、オリジナルは白居易が心を痛めて書いた「詩道崩壞」。唐代の大詩人もアニメの作画監督も、「崩壊」の憂いは共通と思われます。

大沢ぴかぴ

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