花様方言 Vol.183 <同音異義語に異議あり>

2020/02/12

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 漢字は日本語の中で同音異義語の区別に役立っているという。科学:化学、市立:私立、などのことだろう。だがそれは本末転倒だ。漢字を使っているがために膨大な同音異義語が生じたのである。目で見て意味がわかればいい、という漢字の持つ性質だけで何とかなっていたのは昔の話。耳で聞いて区別できない不便を解消する必要が生じて、化学(ばけがく)、私立(わたくしりつ)のように読み替えられた。「化学」は江戸時代、オランダ語の「chemie」や「scheikunde」から「セーミカ」という語が作られ、「舎密加」と当て字されていた。明治維新後の新政府も、化学を担当する部署を「舎密局」(せいみきょく)と名付けていた。それを、上海刊行の翻訳書が入ってきた後、中国での翻訳語「化学」に変えたのである。当時は「科学」との同音衝突など問題にならなかったのだ。(もちろん中国語では「科学」と「化学」は同音ではない。)江戸時代からの訳語を使い続けていれば、「科学」(かがく)と「舎密」(せいみ)で、同音衝突は起きていなかった。

 もし漢字を廃止した場合、いずれ「かがく」(化学:科学)のような同音語は修正されていって、かな文字だけでも問題なく読めるようになるだろう。だが、現在の語彙体系のままでも、かなり、何とかなる。漢字は実際には、言われるほど同音異義語の区別に貢献してはいない。三省堂の『新しい国語表記ハンドブック』に、200近い「同音異義語の使い分け」の例が載っている。「異議:異義」「意思:意志:遺志」「移動:異動」「改定:改訂」「制作:製作」「清算:精算」「会席料理:懐石料理」などなど。では、「異義」と「異議」を書き分けることの意義は何か。「異義」は「異なる意味」、「異議」は「異なる意見」だという。だが、「どうおん いぎ-ご」と言ったら常に「同音で意味の異なる語」のことであり、「いぎ もうしたて」と言ったら常に「異なる意見を申し立てる」ことである。ならば、「いぎ」と発音される言葉には「異なる意味、あるいは意見」という意味があるのであって、それを文脈によって無意識のうちに脳が判断して、しかるべき解釈に、自動運転で導いてくれているのだ。しかも、仮に「異なる意味」(異義)を申し立てたとしても、それも「異議申し立て」であることに違いはない。茶の湯の席の「懐石」が食いたいと言ったのに酒がふるまわれる「会席」料理に連れていかれたとき、この「意味の違い」(異義)を申し立てても「異議申し立て」である(何というややこしい申し立てだ!)。だから、「いぎ」を「異義:異議」と書き分けることに大した意義(ねうち)はない。

P13 Godaigo_727 「異動」は人事異動で、普通の物を動かすのは「移動」。運賃は「改定」、辞書は「改訂」。絵画は「制作」で、家具は「製作」。運賃は「精算」し、借金は「清算」する。これらもみな自動的に決まる。結びつく語によって「相補分布」を見せている。わざわざ書き分けなくても大きな問題は起きない語だ。「いどう」は「移動と異動」、「かいてい」は「改定と改訂」の意味がある、と、ヒマなときにでも解釈しておけば済むことだ。「懐石」と「会席料理」は、前者の意味が後者に含まれる、とも取れるが(競走:競争、などもそう)、「専業者・専門家は区別するが一般人は区別しない」という社会方言的な対立がある。専門用語の区別は、どのみち一般庶民にはわからない。「懐石」も、「石」を「懐」に入れて胃を温めて空腹をしのいだ、と、禅に由来する旨を漢字で示したところで一部の人たちしか興味を示さないし、興味のある人なら「かいせき」とひらがなだったとしても自分で勝手に語源を調べるだろう。漢字を知らない外国人でさえ、日本通ならば「Kaiseki」の意味が「ふところ」と「石」だと知っている。

 三省堂国語表記ハンドブックの「同音異義語」は、そのほとんどが実は、同音の「類義語」と呼ぶべきものである。本当の同音異義語とは、意思と医師、観光と慣行と完工と感光と緘口と勧興、のようなものだ。耳で聞いただけでは意味がわからないものは、漢字が失われれば自然に消えていく。偏在:遍在(一部にだけある:どこにでもある)、視角:死角(見える範囲:見えない範囲)のように反対の意味になるものは特にそうだ。たとえ難解な漢字語であっても、ひんしゅく(顰蹙)、ゆううつ(憂鬱)、ちゅうちょ(躊躇)、けいれん(痙攣)、ひょうきん(剽軽)のように文章語のはんちゅう(範疇)にとどまらないものもあるが、野性:野生(野性的:野生の馬)、未到:未踏(前人未到の記録:人跡未踏の地)のような区別はもう日本人の手には負えない。こんなの区別してどうするの、と、開き直ったほうがいい。

 もくざい、もくぞう、もくば、もくめ、などの「もく」は「木」の意味で、もくげき、もくそく、もくてき、もくひょう、などの「もく」は「目」の意味であろうと、たとえ漢字を知らなくても区別を知ることはできる。実際、ベトナム語や韓国語ではこのようにして漢字由来の語を理解している。中国ですら一時期、漢字廃止を匂わせたことがあった。そうすると北京語音では「権力:権利」「法治:法制」などが同音になるので、区別を失う。結局、漢字は廃止にならなかったが、「fǎzhì」は「法治」か「法制」か、という問題があとに残って、これがあとあとまで尾を引いた。1980年代の辞書には「fǎzhì」のところに「法制」しかなかったりするが、最終的には「法治」が逆転勝ちを収めた。フランス語では、蝶も蛾も「パピヨン」で区別がない。こういうのは「同音異義語」と呼ぶべきものか。あえて「蛾」と言う場合には「夜の蝶」(papillondenuit、または、nocturne)と言う。さすがフランス語、詩的だ、などという私的な指摘は史的にも詞的にも至適とは言えないが私的(わたくしてき)には素敵(すてき)だと思う。

大沢ぴかぴ

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