花様方言 Vol.194 <辞書のたたかい>

2020/07/22

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 辞書なんかどれも同じ、と思われているのだろう。だから売る方も工夫して、内容以外のことで違いを出そうとする。阪神タイガース仕様の国語辞典を初めて見たときは大阪弁の辞書かと思った。その後、広島東洋カープ仕様と福岡ソフトバンクホークス仕様も出たが、中身はどれも同じ『三省堂国語辞典』。広島弁でも博多弁でもない。箱や表紙の「仕様」が違うだけだ。英語辞書なら、ミッキーマウスと、スターウォーズと、くまモンの仕様がある。わたくしも25年前、香港の三聯書店発行のスヌーピーの『英漢辭典』を買った。音声表記のしかたに特徴があったから、というのが表向きの学術的な理由。本当の理由は、スヌーピーが好きだから。

 NHKの字幕で「コロナとのたたかい」というのを見た。もっぱら「コロナとの闘い」としてきたNHKだがついに、「闘い」は変だ、と苦情が来たのだろうか。「コロナとの戦い」にしたら「闘い」の支持者から文句を言われる。そのジレンマから「たたかい」としたのだろうか。「異字同訓」については旧文部省国語審議会およびそれを引き継いだ文化庁文化審議会国語分科会が以前の当用漢字表および現行の常用漢字表の参考資料として用法例を作成し報告しているが(ややこしそうだろう、お役所仕事だ)、それをどう扱うかは辞書によって異なる。三省堂国語辞典(略して三国)はまさに異字同訓書き分けの草分けである。第二版(1974年)から「いわゆる異字同訓(「足」と「脚」、「柔らか」と「軟らか」など)の書き分け」が始まり、第三版(1982年)では「異字同訓の詳細は、この辞書ではじめて明らかになった」と、編集主幹の「ケンボー先生」こと見坊豪紀は豪語している。

(Confirmed)749_Godaigo 『三国』はヤバい辞典である。編集者の名前に、見坊豪紀、金田一京助、金田一春彦、柴田武、と、いきなり死人の名前が4つも並んでいる。彼らの霊が憑りついているから…ではない。辞書の著者が死人の名前になっているのは、かの広辞苑も同じだ。広辞苑の新村出は1967年に他界しているが、その後第二版から第七版まで、ずっと「新村出」の名前のままで新語を増やし続けている。決して亡霊が用例採集をしているわけではない。(してたりして。)広辞苑の「付録」に「異字同訓」の用例133組が載っている。【戦う】は「武力や知力などを使って争う。勝ち負けや優劣を競う」、【闘う】は「困難や障害などに打ち勝とうとする。闘争する」となっている。それじゃあ「武力や知力などを使って、困難や障害などに打ち勝とうとする」場合はどうなんだ、となるし、何だこれは、こんな解釈初めて見た、という人もいるだろう。だが、「前書き」にはこう書いてある。使い分けは「年代差、個人差に加え、各分野における表記習慣の違い等」があるので、あくまで「一つの参考」であり「異なる使い分けを否定する趣旨ではない」。そして「必要に応じて、仮名で表記することを妨げるものではない」。闘い:戦い、の無意味な(?)意味の分割を回避するには(そもそも日本語の「たたかう」に、もともとそんな区別はない)、仮名で「たたかい」とするしかない。

 三省堂『新しい国語表記ハンドブック』にも同様の記述はある。「…どちらかを使うかが一定せず、どちらを用いてもよい場合がある」「一方の漢字が広く一般的に用いられるのに対して、他方の漢字はある限られた範囲にしか使われないものもある」。なのに『三国』は、「たたかう【戦う】」と「たたかう【闘う】」は二つの別の単語であり、「同音語」だという。漢字の使い分けを推進して日本語を分割しようとしている。異字同訓は上述のような取説(?)を理解したうえで扱わないと、いたずらに書き分けに振り回されるような事態になりかねない。タイガース仕様の『三国』を買った阪神ファンは、闘争心が特別に刺激される巨人とは「闘う」、その他のヤクルトやDeNAとは普通に「戦う」と、書き分けるようになるのだろうか。(巨人と闘う場合でも「巨人戦」である。)

 同じ三省堂でも『新明解国語辞典』はまったく違う。「たたかう【戦う】」は一つのみだ。「闘う」とも書く、と、ひとこと添えられているだけ。『新明解』は個性的な語釈で人気だが、『三国』の「かがみ論」も有名だ。辞書は言葉を写す「鏡」であり、言葉の手本としての「鑑」(かがみ)でもある、と、ケンボー先生は辞書の序文からいきなり書き分けている。だが漢字は日本語の姿を鏡のように映してはいない。日本語の「かがみ」は、成り立ちをありのままに映すなら「影見」だ。「かげ」にも「影:陰」のような書き分けがあるが、日本語の「かげ」は、おもかげ(面影)、亡き影(遺影、または死者の霊)など、逆に意味範囲がもっと広い。試みる、省みる、偏る、炎、蛍、掌、などは、心見る、返り見る、片寄る、火(ほ)の尾、火垂る、手の平、というのが日本語の姿だ。ちなみに「たたかう」は「たたく」(叩く)から来ている、らしい。叩かう(?)。

 新村出は「しんむら・いずる」なのだが「広辞苑のにいむら」と言われていた。大学の先生も「にいむら」と読んでいた。発音まで漢字の「かげ」に隠れてしまう。L’essentiel est invisible pour les yeux.(肝心なことは目に見えない。『星の王子さま』)。『三国』には「シュミレーション」が載っている。(「シミュレーション」のあやまり、と書いてある。)「アボカド」の項には「アボガド」も載っている。「したづつみ」(←したつづみ)を項目に出しているのは『三国』(と広辞苑)くらいなものだ。さすが辞書の鏡(鑑?)。福山雅治は『容疑者Xの献身』の中で「シュミレーション」と言っている。ガリレオ先生は学術論文にも「sumilation」と書くのだろうか

大沢ぴかぴ

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