香港の「水」に殉じた日本人 藤沢功氏 没後50年

2014/12/08

貯水池

香港で4日間に4時間しか水が出なかった事があったということを知っているだろうか。

1963年5月3日から1日3時間の給水、続いて5月16日から1日おきに4時間給水と給水制限が強化され、ついに6月1日から『4日間に一度の4時間給水』という最悪の事態となったのだ。

これは前年から異常に雨が少なく香港全体が渇水状態であったことに加えて、中国本土から難民が続々越境してきたことも原因のひとつとで、この時点で香港の人口は終戦の年から5倍程に膨れ上がっていた。更には香港で軽工業・精密工業が盛んに興り、大量の工業用水が必要になった事も水不足の原因だったと言われている。

当然のことながら香港政庁がこの異常事態を放置しておいた訳ではない。ランタオ島(大嶼山)のセクピック・ダムから始まり、この工事のメインであるプロヴァ・コーヴ・スキーム工事の第1段階・第2段階と続く一大土木工事を企画し、給水量を増やす政策をを大車輪で推し進めたのだった。第1段階の工事は、タイポー(大埔)から南下してシャーティン(沙田)の西郊に至る総計10数キロの水路トンネルと、その南の端末に構築される下城門ダム(Lower Shing Mun Reservoir)から成っており、プロヴァ湾を締め切って淡水貯水池にする大工事は第2段階となっていた。

その第1段階の水路トンネルを熊谷組が、下城門ダムを西松建設が国際入札に応札し、落札に成功した。日本の企業がこのような国際入札を落札できたのは戦後はじめてで、日本の建設業界にとって快挙だった。

下城門ダムの工事現場には西松建設の藤沢功氏が機械課長として携わっていた。同氏は1962年3月の落札以来、水飢饉の非常事態を乗り切る為の契約工期の短縮や、イギリス人の現場監督や労働管理者たちとの対応に悪戦苦闘した。しかしながら、なんとか任務を果たし、工事が完成に近づいた1964年12月14日、取水塔の調節バルブ点検のため塔内に入ったところ縄ばしごが切れて転落。香港の水の人柱となってしまった。

藤沢には、大戦中に香港を占領した日本軍によって誤って父親を殺され、心の底で日本人を憎み、恐怖感を抱く香港人女性の何麗芬(ホウ・ライフン)という恋人がいた。藤沢の人間性と誠実な人柄が、日本人に恐怖感を抱く麗芬の心を開かせ、2人の間に愛が芽生えていった。様々な事情によりシンガポールで姿を隠していた麗芬が再び香港に戻って来る前日、藤沢は香港の水に落ちて帰らぬ人となっていた。

そして、麗芬は藤沢の1周忌法要にはるばる岩手県の郷里に藤沢の墓参りに訪れたのである。その墓前で麗芬が香港から持参した水筒から、彼の墓石に水を注いだ。「これはあなたが生命を捧げた、あの香港の水です。でもその水道もまるで百年も昔からあったかのように、いずれあなたの名を忘れるでしょう。私にも忘れさせて下さい。」

近年では50年前の大水飢饉も、それに直面した香港政庁のイギリス人高官の決断も、トンネル・ダムの工事に死力を尽くした日本の建設会社も、そしてダム完成直前に人柱となって殉死した藤沢功氏のことも多くの人の記憶から薄れてしまっている。

藤沢功氏が亡くなって今年でちょうど50年。香港の公共事業の多くに日本の建設会社が関わるきっかけとなったこの出来事を、この機会に今一度振り返ってみる必要があるのではないだろうか。

貯水池周辺

「日本語を話す会」(NPO)が藤沢功氏の50年目の命日に、遭難現場である下城門ダムの取水塔の見える場所で、同氏の冥福を祈る予定。香港の水の歴史の現場を訪れる良い機会だ。是非参加してみよう。

日時:12月14日(日)14:00~15:30
集合場所:MTR大圍駅
費用:HKD20(チャーターバス代)
問合せ:日本語を話す会 荻野まで
電話:(852)9756-9973
メール:ogino@hknet.com

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