花樣方言 1人称代名詞「私」の発音と意味

2015/03/24

アナ雪日本では『アナと雪の女王』がいまだに大人気。この冬、関連グッズの売れ行きが絶好調、紅白歌合戦でも見せ場を作って、次は、いつの日か松たか子さんが公の場で主題歌を歌うとき、また大いに話題となるのでしょうね。

『アナ雪』の舞台、架空の国「アレンデール」はノルウェーがモデルです。ノルウェーだと明言しないのは、必ず出てくる「実物と違うぞ」というヤジをかわすためでしょうが、ベルギーが舞台なのにオランダの服を着ていた『フランダースの犬』などに比べれば格段によくできています。民族衣装ブーナード、スターヴ(木造)教会、ノルウェー料理ルーテフィスク、フィヨルドホース(馬)、先住民族サーミ人の文化、そして、ルーン文字と古ノルド語(昔の北欧語)…。『アナ雪』には41の言語によるバージョンがあるのですが(博多弁版、大阪弁版…というのは含めずに、です)実はノルウェー語には、異なる2種類の公用語があります。

ノルウェーは500年間デンマークの支配下にあったので、都市部で話されているノルウェー語はデンマーク語に似ています。これがもとになってできているのがブークモール(書物の言葉)と呼ばれる言葉。もうひとつはニューノシュク(新しいノルウェー語)といって、こちらは純粋なノルウェー語の再生を目指して、デンマーク語化していない田舎の方言をもとにして作られた言葉。だから「新しい」といっても言葉そのものは古いのです。使用者はブークモールのほうが圧倒的に多くて全人口の約9割。『アナ雪』のノルウェー語版ではアナなど主要キャラはブークモールを話しますが、実は当初の録音ではニューノシュクだったということが明るみに出て、これがちょっとした物議をかもしました。ニューノシュクはブークモールと対等の権利を認められた公用語。少数派ですが郷土愛に支えられて熱心な支持者が多いのです。ネット上のノルウェー語もニューノシュクはとても活発。数の原理を優先させて言葉を変更したディズニーの判断は、方言の権利が守られている進歩的なノルウェーの、いささか敏感な部分に抵触したわけです。

ブークモールでは「私」をjegと書き、「ヤイ」と発音します。これはデンマーク語と同じです。ニューノシュクではeg。「エーグ」と、[g]を落とさずに発音します。ヨーロッパ語の「私」はみなラテン語egoや古典ギリシャ語egō(エゴ=私)と同起源ですが、現在のラテン系諸語では、フランス語je、イタリア語io、スペイン語yo、ポルトガル語eu、のように[g]はいずれも脱落しています。ゲルマン諸語では、ドイツ語ich、オランダ語ik…のような形で残っていますが、英語では落ちて、(I アイ)。英語も中世まではicと書きました。アイスランド語ではeg。アイスランドは中世にノルウェー人が移住した島で、言葉は古いノルウェー語そのものなのです。

偶然ですが中国語でも、「私」を表す1人称代名詞「我」は[g]音がカギになっています。「我」は南部の広い地域で広東語の[ŋo(]ngo)のように[ŋ(]gの鼻音)ではじまり、北部は北京語の[uo](wǒ)のように[u]か、または子音化して[v]です。[v]が現れるのは、蘭州、銀川などの蘭銀官話や済南、チンタオなど。海南島の海南閩語は福建の閩南語系の言葉ですが、南部としては珍しく[v]音で、[va]。ルーツをさかのぼってみると、潮州語で[ua]、そして福建では、アモイ語などで[gua]。これは南部の[ŋ]と北部の[u]両方を合わせ持った、「我」のご先祖のような発音ですね。[guo]から[u]が落ちたのが南部、逆に[g]が落ちたのが北部(と潮州語、海南閩語)なのです。客家語では[ŋai]、また、閩東の福州語が[ŋuai]。さてこの[i]は何でしょう。客家語のルーツは山西省の晋語だと推定できますが、この地域の平遥で「我」は[ŋie]。平遥古城は世界遺産ですが、街並みだけでなく言葉も古いのです。かくのごとく、大昔、「我」は[i]の音を含んでいたのだとわかります。このことは「義」「儀」「議」など(中国語で「イ」、日本語なら「ギ」)の字の中に「我」が使われていることからもわかります。これなどはもう、ご先祖様どころか、化石のようなものですね。ちなみに広東語で「蟻」は[ŋai]。

「私」という字は本来、「公」(おおやけ)に対する「私」(わたくし)という意味です。日本語でももっぱら、私物、私人、私立、公私混同…のように使う語だったのです。転じて自分を指し示す言葉になったのは「おれ」や「僕」よりもずっと新しく、「わたくし」の縮まった形「わたし」が常用漢字「私」の訓読みとして正式に認められたのは5年前の2010年です。さて、『アナ雪』は女王エルサが自我に目覚めてありのままに生きる話ですが、ノルウェーにはイプセンの『人形の家』という、やはり自立する女性を描いた名作があり、百年前の日本人を魅了しています。「自我」は英語でego、つまりラテン語で「わたし」という意味の言葉です。「エゴイスト」といったら「自分勝手な人」になりますが。北欧は女性の首相が多く、閣僚も半分ぐらい女性だったりします。女性の社会進出の道も、方言(=自分の言葉)を使える空間も、大きく開かれているのです。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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