花樣方言 言語による文法の相違

2015/09/14

Vol.72<文法の話>

久しぶりに文法がテーマです。文法というと多くの人が拒絶反応を起こしますが、不必要な誤解は禁物。文法とは、何でしょう。
「じんにほん」と言うのを聞いて、意味のわかる人はまずいません。ところが「にほんじん」と言いかえると、突然、意味は伝わります。日本語では「にほん」を先に、「じん」を後に言わないと「日本人」の意味にならないのです。これが文法です。当たり前のことに思われますが、しかしタイ語やベトナム語やインドネシア語など世界のおそらく半数近い言語では、「人」を先、「日本」を後に言わないと意味が通じないのです。言語によって文法は違っていますが、日本語話者にとって日本語の文法は当たり前のこと、同様にタイ語話者にとってタイ語の文法は当たり前のことです。

地図「書く」という動詞は、「書か」ない、「書き」ます、「書く」とき、「書け」ば、「書こ」う、のように活用しますが、日本語を習う外国人にとって、これは面倒なことです。だからといって、5年後にはオリンピックもあることだし外国人のためにも活用をなくそう、などということが可能でしょうか。書くない、書くます、書くば、書くう、のように活用させずに言うことは、活用に慣れてしまっている日本語話者にとって、逆に面倒なのです。これが文法です。日本人が英語を使う場合、「He writes」と「-s」を付けるのが面倒で忘れがちですが、英語のネイティブスピーカーにとっては、「s」を落として「He write」などと言うことのほうが面倒なのです。何行何段活用…という「文法」用語に拒絶反応を起こしても、書かない、書きます…と活用させること自体は日本語話者にとって朝飯前、無意識の行為です。面倒なのは違う言語の文法であって、自分の言語の文法ではありません。

「書かない」は、正確にいうと東日本の方言です。中部から西日本では「書かぬ」から変化した「書かん」が主流で、関西では「書かへん」「書けへん」のようになります。「書かない」という言い方は東日本の人にとっては当たり前ですが、「書かん」「書かへん」と言っている人にとっては当たり前ではないので、両者の言語では「文法が違う」のです。源氏物語や万葉集などの古文は、要は昔の関西弁であり、否定形は「ず」、「書かず」です。万葉集の東歌は東日本方言の歌で、否定形は「なふ」、東日本は大昔から文法が違っていたことがわかります。室町時代以降は「ない」が現れて広まり、東日本ではこれが現在まで引き継がれています。「書かへん」「書けへん」は「書きはせん」の縮まった形で、明治以降の新しい関西弁。過去形は、若者はほとんど「書かへんかった」「書けへんかった」あるいは「書かんかった」ですが、古い形の「書かなんだ」やその丁寧形「書きませなんだ」も年配層を中心に関西各地でまだ使われています。

九州や四国や中国地方で「人が落ちよる」のように言うと「落ちている最中」を表し、「落ちとる」「落ちとう」のように言うと「すでに落ちている」ことになります。東日本で言う「落ちて(い)る」にはこの両方の意味があって、動作の「進行中」と「完了・結果・状態」の違い(アスペクトといいます)を区別しないのです。このように日本語の文法には東西で根本的な違いがあることがわかります。また、現代語の「落ちた」の「た」は完了(アスペクト)と過去(テンス、時制)の両方を表しますが、古文では「つ」「ぬ」が完了、「き」「けり」が過去、と区別していたわけですから、文法は時代によっても変わるのだ、ということもわかります。中国語も同様に、長江あたりを境に南北で文法の違いがあります。広東語、閩南語、客家語など南部の言葉ではアスペクトとテンスを区別できますが、北京語など北部では曖昧で基本的にアスペクトのみ。南北で、差が大きそうに感じられる音韻は実はとても法則的で類似性が高く、差がないと思われがちな文法は実は根本的な構造上の違いがあるのです。

京都で「書けへん」と言うと、「書かない」ではなく「書けない」という意味なので要注意。大阪では「書かれへん」です。
「書かない」と「書かん」の境界線は静岡の大井川近辺ですが、「落ちよる:落ちとる」の区別をするかしないかの境界はずっと西で、近畿方言を分断して播州弁(播磨・神戸)と摂津弁(大阪)の間。九州から神戸までがアスペクトを区別するのです。大阪・京都では「~てる」が普通で、「~よる」「~とる」は待遇法という別の文法範疇になり、軽度の不快感を表して、見下したりけなしたりする意味あいが出てきます。「新幹線雪で止まりよんねん」。笑福亭鶴瓶の「この子よう笑いよるなあ」のような言い回しは、卑下しているようでいて多分に親愛の情がこもった絶妙なニュアンス。これが感じ取れれば、NHKの人気番組『鶴瓶の家族に乾杯』はよりいっそう楽しく見られることでしょう。京都・大阪・神戸で文法はこんなに違うのです。
大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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