花樣方言 過去・完了・確認の意味の区別

2015/09/30

「香港には今もまだ、日本語を話せる人がこんなにたくさんいたのですね」。こういう文を書くと必ず、「いるのですね」のように直す編集者が以前、いたのです。もう退社されているはずなのでネタとして使わせてもらっても差し支えないでしょうが、この編集者の方はおそらく、「今」のことを書いているのだから「過去形」の「いた」は間違いである、こう解釈していたものと思われます。

「た」には基本的に3つの意味があります。「過去」と「完了」と「確認」。冒頭の例文の「た」は、過去ではなく、確認の「た」。今はもう話せる人はいないと思っていたのに実はまだたくさんいる、という事実に気づいて、それで、「いたのですね」と感心しているのです。文法的に正しい文です。

探し物をしていて見つかったとき、「あった!」と叫びます。これは、見つけたのが0.1秒ぐらい前の出来事なので過去形で叫んだ、ということではありません。ましてや、話し言葉なので文法は関係ない、などというのはもってのほか。自然現象である話し言葉にこそ、文法の真髄があります。「た」にはもともと、文法的にこのような用法があるのです。また、次の文はどうでしょう。「あした課長に会った後、出かけます」。明日のことなので「会った」を過去と取るのは変です。これは、完了の「た」。明日「課長に会う」という行為を完了させた後に出かける、と言っているのです。完了(アスペクト)は明日(あす)のことも表せるのでアスペクト、などと言ったらおやじギャグのレベルですが、アスペクトは時制(テンス)とは別枠の文法範疇なので、過去完了、現在完了、未来完了、という組み合わせが成り立つのです。課長に会ったのでおやじギャグを聞かされた(過去完了)。課長に会ったのでおやじギャグを聞かされている(現在完了)。おやじギャグを聞かされた後に出かける(未来完了)。

英語は、過去・現在などのテンスと、完了・進行などのアスペクトの区分がはっきりしていて、「went」は「行った」、「havegone」は「行ってしまった」のように学校で訳させられます。「~しまった」を完了の訳として使うのは不自然な翻訳調の日本語。ありのままに「行った」と訳したほうがよっぽど日本語の文法に沿った自然体なのですが、テストでは「行ってしまった」としないと「×」になります。そもそも国語の時間に日本語の文法をろくに教えないのだから、「た」の何たるかを生徒は知ることができません。そこへ来て英語の時間に「-ed」は「過去」です、「~た」です、と、すりこまれるので、おそらく99.9%以上の日本人が、「た」は過去、と思っているのではないでしょうか。

「た」を過去と決めつけるのは問題だとしても、現代夕暮れの飛行機日本語では、過去、完了、確認、これらがみな「た」ひとつによって表されている、という事実には注目すべきです。英語のようなテンスとアスペクトの明瞭な区別は決して言語の普遍的な姿ではなく、過去と完了をはっきり区別しない言語は世界中にたくさんあります。フランス語にも英語の完了「have~-ed」に相当する形はありますが、フランス語ではこの形で普通の過去を表します。そしてなにより北京語の「~了」が、過去、完了、確認のいずれをも表し、日本語の「~た」にそっくりではありませんか。多くの場合、北京語の「了」には2種類あると説明されます。動詞に付く完了アスペクトの「了」と、文末に付く確認など(モダリティといいます)の「了」。「吃了」だけではどちらの「了」か判別できませんが、広東語や南語や客家語など南方の言葉と比較してみると、北京語だけではわかりにくい実体がよく見えてきます。広東語では、完了の「食べた」は「食」、確認のほうは「食喇」、北京語で「了」に統合されている両者が広東語ではそれぞれ個別の形を持って現れています。
「食飯喇」(ご飯食べたよ)、こういう場合、北京語では「吃(了)飯了」と、「了」をひとつ省略できます。「食喇」も、「吃了了」とはせずに「吃了」、ひとつでいいのです。つまり「了」は完了と確認の両方を表し、また状況により過去も表すので、英文法を模してアスペクトなのかテンスなのかモダリティなのか、はっきりさせることのほうがしょせん無理、というか、無駄なのです。文法とは、こういうものなのです。

北海道のウエイトレスは「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と「過去形」を使う…。こんなことが話題になったのが15年ほど前。北海道はもともと「た」を多用する地域で、「おばんです」より「おばんでした」と言ったほうが丁寧な表現になります。その後「よろしかったでしょうか」は、「ご注文のほうは~」などの「ほう」、「こちらナポリタンになります」などの「なります」などと共に「コンビニ・ファミレス用語」として全国的に広まりましたが、違和感を覚えるという年配の方々もまだまだたくさん、いるのです。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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