花樣方言 ニホンとニッポンの歴史

2016/11/08

馬魏志倭人伝の中に、倭には「牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)はいない」という記述があります。これが事実だとすると、日本にはもともと馬はいなかったことになり、倭人伝の時代の後、すなわち4世紀以降に日本にもたらされたことになります。

普通、「うま」は訓読みで和語だとされますが、漢語の馬[ma]の借用語である可能性が高いです。ほかにも、和語とされていながら実は古い時代の漢語からの借用であろうと考えられているものに、梅(うめ)[muai]、菊(きく)[kuk]、麦(むぎ)[mæk]、銭(ぜに)[dzien]、絹(きぬ)[kiuan]、紙(かみ)←簡[kæn]、鬼(おに)←穏[uən]、などがあります(古音は参考値)。広東語の知識があると、ピンと来るものが多いはず。それに、紙や麦や絹など、もともと日本になかった物の名前が和語であるはずがない、という発想が何より大切です。

馬とともに、「1匹、2匹…」という数え方も日本に入ってきます。「匹」は常用漢字表では「ひつ」が音読みで「ひき」は訓読みとなっていますが、漢和辞典では普通、「ひき」は「慣用音」、すなわち音読みの変種として扱われます。「匹」は閩南語で[pʰit]、客家語でも[pʰit]、また広東語でも[pʰat]なので、「ひつ」との音対応には問題ありません。「ひき」のような例外の説明はとても難しいのですが、どんな言語にも使用頻度の高い、古い借用語にありがちな、形態的な不規則性です。潮州語は[pʰik]ですが、これは偶然の一致でしょう。漢語の「匹」は、馬、駱駝、驢馬(ろば)など、馬および馬偏の漢字の動物にしか使わないのに対して日本語の「ひき」の使用範囲はおよそ全ての動物、虫、魚の部類に拡散していて、極めて日常的な基礎語彙となっています。日本語ではポケモンや怪獣まで「1匹、2匹…」なのだと知ったら中華圏の人たちは大変怪訝に思うのです。

いっぴき、にひき、さんびき、よんひき…、発音してみると、日本語の「匹」には「ひき」「びき」「ぴき」の3種類があるとわかります。「~本」もまた、いっぽん、にほん、さんぼん…、「~杯」は、いっぱい、にはい、さんばい…。外国人が日本語を習う際、めちゃくちゃ苦労するのが、まさにこれ。無意識のうちに使い分けて何ら気にも留めてないのはネイティブスピーカーである日本語話者だけで、外国人には、[p]と[b]と[h][ç][ɸ]が数字によって交替する超怪奇現象と映っているのです。これの種明かしは実はとっても簡単。日本語のハヒフヘホの発音は本来[pa][pi][pu][pe][po]であって、これが[ha][çi][ɸu][he][ho]に変化したために起こった見かけ上の混乱に過ぎません。[b]になるのは、「割り箸」「吊り橋」などの「~ばし」と同じく、連濁。そして[p]のまま残っているのは、それが促音の後だからです。だから「ニッポン」は、促音の後なので変化が起こらず[p]のまま、「ニホン」は促音の後ではないので、[h]に変化したのです。「ニッホン」と言ってみて下さい。とても言いにくいでしょう。

パピプペポの小さな丸は、ポルトガル人の宣教師が安土桃山時代に初めて[p]音の記号として使ったとされます。「ハン」は南蛮伝来のパンのことかそれとも「斑」や「藩」のハンなのか、こういう区別ができるようにするためです。やはり当の日本人より外国人のほうがパ行音に敏感だったようですね。~ぴき、~ぽん、~ぱい、のように助数詞にパ行音が現れる、いっ(一)、ろっ(六)、はっ(八)、じゅっ、じっ(じふ。十)は、それぞれ閩南語で[it][liok][pat][sip]、客家語もほとんど同じ、広東語でも、ヤッ[t]、ロッ[k]、パーッ[t]、サッ[p]。華南の中国人なら日本語の「促音+パ行」になる場所が、わかりやすいのです。さて、「ニッポン」がいつ「ニホン」になったのか、これの検証はかなりの難問。理論上はニッポン→ニポン→ニフォン→ニホンですが、そもそも過去の日本語ではニッポン~ニフォンの間の境界が曖昧で区別の意識がなく、また区別する必要もなかったことが今日「日本」の読み方がニホン(二本)立てになった原因です。促音もまた、がってん(合点)→がてん、どっきょう(読経)→どきょう、のような脱落への一方通行だったわけではなく、むしろ中世~近世には、あはれ(あわれ)→あっぱれ(「天晴れ」は当て字。意味も変化)、もはら→もっぱら(専ら)、もとも→もっとも(最も)、れき(歴)とした→れっきとした、やはり→やっぱり、逆に促音化の傾向があったのも事実。日本は、やはりニホンでもいいし、また、やっぱりニッポンでもいいのです。

魏志倭人伝には、その信憑性はともかく、なかなか興味深い記述が多々あります。倭では「生野菜を食べる」「長寿であり、百歳や、八十、九十まで生きる者もいる」「盗みはなく、言い争いも少ない」「女はつつしみ深く、嫉妬をしない」。じゃじゃ馬もいなかった、ということでしょうか。

大沢ぴかぴ

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