花樣語言 Vol.114 <老驥伏櫪と青椒肉絲>

2017/04/25

花樣語言

先月、「櫪木」について書いたその日に栃木県の雪崩のニュースが伝わってきました。香港の主要メディアは例によって「栃木」を「櫪木」としましたが、RTHKが正しく「栃木」でした。流動新聞(Modia)は、なんと一つの記事の中に「栃木」と「櫪木」が混在。栃木が「櫪木」と間違えられる理由は以前にも書いた通り、和製漢字の「栃」が「櫪」の簡体字「枥」だと思われるからで、そして奇遇なことに「枥」と「栃」が普通話では同音なのです。「枥」は「櫪」、「栃」は「櫔」、広東語ではもちろん両者の発音は違いますが、「櫪」は「歷」とも、声調が異なります。にもかかわらず香港では「櫪木」が、広東語で常に正しく間違えて発音(ややこしいですが文字通りの意味です)されているのです。

栃木の「櫪木」は間違いですが、香港の教養人が「櫪」を広東語で正しく発音できるのは、「櫪」(クヌギ)が決して未知の字ではないからのはずです。やはり曹操の、あの言葉でしょうか。「老驥伏櫪 志在千里」。老驥(老いた、足の速い馬)櫪(馬小屋)に伏すも、志(こころざし)千里に在(あ)り。馬屋のクヌギの床板の上で寝ている老いた駿馬は若いころ千里を駆けた志を捨てていない、という意味で、人が年をとっても若者同様の大志を抱くこと、や、自分の能力を発揮しないまま年をとること、などのたとえとして使われる、老驥伏櫪(ろうきふくれき)です。唐詩の白居易からは、「櫪馬」。馬屋の中の馬、束縛されて不自由なことのたとえ、です。阿(あ)と言えば吽(うん)、助さんと言えば格さん、のように櫪と言えば馬と決まっているのです。

「栃」(トチノキ)は中国語で「七葉樹」というのだそうです。「栃」の繁体字「櫔」と同じ形の字は『山海経』などに出てきますが何の木を意味したのかは不明。和製漢字で中華圏に完全に溶け込んでいるのは「鮑」(あわび)と「腺」ぐらいなものです。リンパ腺、甲状腺、などの「腺」は完全に日本製の漢字ですが「前立腺」というとき香港では「前列腺」なので要注意。台湾では「攝護腺」を使いますが、これは江戸時代の『重訂解体新書』に出てきて終戦直後まで日本で使っていた、骨董品のような医学用語です。

誤字は、とても勉強になります。なぜ誤字になったのかを知ることで、言葉の本質など、色々なことがわかるからです。『シン・ゴジラ』のことを書いたとき、続けて「シン・誤字ラ」という誤字の話題に進もうと思ったのですが『君の名は。』とピコ太郎という新ネタが相次いで現れて、計画倒れになっていました(ダジャレが気に入らなかった、という理由もありますが)。『君の名は。』にも興味深い誤字ネタはけっこうあります。「佔領」を「占領」と書く日本人にダメ出しする香港人は当然、日本人の使う「糸」という字にも抵抗があるはずです。『君の名は。』の「糸守」(いともり)という架空の町は台湾の翻訳ではそのまま「糸守」なのですが、この場合の「糸」は略字で、本字は「絲」です。「佔」が「占」で「蟲」が「虫」である中国の簡体字でも「絲」は「糸」ではなく「丝」。本来なら「絲」とは別の字である「糸」は「ベキ」と音読し、広東語なら[mɪk]、普通話では「mì」、意味は「細い糸」や「生糸の量の単位」、または「数量がわずか」であることを表しますが、大昔の中国ではやはり「絲」の略字として使われたことがあるのです。世界遺産、富岡製糸場の漢語名は「富岡製絲廠」(富岡制丝厂)。これなら誤字とは言われません。

日本と中華圏では、「いと」の意味区分がかなり違っています。本来、絹糸を意味する「絲」、これが糸状・紐状のものを比喩的に表すことはあっても(鐡絲、など)、普通に「いと」あるいは「ひも」というとき中華圏では「線」というのです。針に「線」を通して服を縫います。靴の「線」を結びます。「線」は日本でも、電線、有刺鉄線、ピアノ線、のような使い方をしますが、多くは、直線、曲線、海岸線、線を引く、など、あくまで抽象的なものを指します。対して、3次元空間に実体として存在していて太さ・細さ、質量があり、結んだり縛ったり魚を釣ったりできる物体は和語で「いと」「ひも」と呼ぶ、という分担がなされているのです。字は、香港では「綫」を使います。日本は「山手線」、台湾でも「宜蘭線」、香港では「港島綫」「東涌綫」「機場快綫」(エアポート・エクスプレス)。簡体字は「线」。日本漢字の「腺」は共有しても、線、綫、线、はバラバラ。

「絲」の使い方。「絲綢之路」(シルクロード)、「絲襪」(ストッキング)、「蜘蛛絲」(蜘蛛の糸)、「青椒肉絲」(チンジャオロース)。自転車を「鋼絲車」という地域が中国にあるのはチェーンを「鋼鉄のいと」と見ているからで、同じく「線車」というのも自転車のチェーン(線)に着目した命名です。前回、中国の自転車のことを書いたのは、今回の「いと」の話の伏「線」でもありました。

大沢ぴかぴ

 

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