花樣語言 Vol.115<東国のスゴい地名>

2017/05/09

花樣語言 Vol.115

香港には、とても立派な馬小屋があります。え? ハッピーバレーか沙田か、って? いえいえ、競馬場ではなくてチムサーチョイのど真ん中、1881ヘリテージ。これ は か つて警察署だった建物を改造したホテルとショッピングモールで、ここに100年以上前の、香港に自動車が入ってくる以前の警察の馬の厩(うまや)があって、リフォームしてレストランになっているのです。床が板張りになっているのは、歴史的な馬小屋を意識したデザインに違いありません(前回の「老驥伏櫪」参照)。この床板はクヌギ(櫪)か、と聞いてみたくなる衝動をこらえて(変なやつだと思われそうだから)、せっかくだからここで食事をしていこうという衝動もこらえて(高級すぎるから)、いつも見るだけ見て帰ってきます。

クヌギの木は現代の漢語では「麻櫟」のように「櫟」の字で表すのが普通なので、故事成語に出てくる「櫪」はすでに「クヌギ」の意味を通り越して、クヌギの床板の馬小屋、あるいは馬用のかいば桶、など馬関係のものに直結するようになっているのです。風神と言えば雷神、鉄人と言えば28号、のように「櫪」と言えば「馬」。香港で「櫪木」と書かれてしまう栃木(隣にあるのが群「馬」県なのは偶然)、これがなかなか正されないのは、「櫪」があまりにマイナーな字なので日本人も「栃」の繁体字は「櫪」なのかと思ってしまうからなのでしょうか。では、同じく「崎玉」と書かれることの多い埼玉県の場合はどうでしょう(『小説・秒速5公分』でも「崎玉」になっています。

「崎」と「埼」、これはほとんどの日本人が、違う、と思うはず。ところが、こちらは実のところ、単純に間違いだとは言い難いのです。中華圏では「崎」と「埼」、さらには「碕」も、同じ字だと見なされています。根拠は何かと問うならば、清朝初期の字典『正字通』とその後の『康煕字典』、これらが『集韻』を引用するなどして、この3つを異形の同字だとしているからです。日本では、千葉県の「犬吠埼」、静岡県の「石廊崎」、島根県の「日御碕」、のように、どの「さき」の字を使うかが場所ごとに決まっています。「碕」は石だらけの岬、「埼」は土がむき出しで木や草の生えていない岬、「崎」は山が海にせり出した岬、などと説明する人もいるようですが、こういう解釈は明らかに後付けですね。静岡県の「御前崎」は、地名は「崎」でもそこにある灯台名は「御前埼灯台」。(どうだ、知ってたか?!)

埼玉は、東京がまだ海の底だった頃に海岸だったところで、万葉集にも「さきたまの津」と詠まれている歴史悠久の地名です。県名の由来となった県北部の行田市埼玉(さきたま)、そして同市にある「埼玉(さきたま)古墳群」などが、「埼」を「さき」と読む古い発音を伝えています。「さいたま」となるのは平安時代からで、これは「イ音便」といって、月立(つきたち)→「ついたち」、衝き立て→「ついたて」などと同じく「き」→「い」([k]の脱落)という変化と同時期に起こったもの。活用音便の「咲きて→咲いて」、「書きて→書いて」、「美しき→美しい」などとも同じで、日本語の音韻の歴史的変化を「さきたま→さいたま」は映し出しているのです。さきたま古墳群にある稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれていた115文字の発見(1978年)は日本古代史研究にとって画期的な大事件。なお、合併で新しくできた「さいたま市」というのは本来の「さきたま」とは場所が別。広島、岡山、鹿児島など数ある県庁所在地名=県名の場合とは逆に、県名が先で、それがあとから県庁所在地名となった、珍しいケースです。

「崎」はもともと中華圏では使用頻度の極めて低かった字で、宮崎駿や浜崎あゆみがいなかったら、また、ヴェルディ川崎がなかったら、香港でも超マイナーな字のままだったはずです。漢字は、要は「慣れ」の問題。富岡「製糸場」の漢語表記「製絲廠」は簡体字では「制丝厂」ですが、「製」を「制」としたり、また「穀物」を「谷物」としたりする中国の方式は日本人にとって「慣れ」の圏外です。ただし、漢字の統廃合自体は日本人の特技とするところで、尖端→先端、編輯→編集、障礙(碍)→障害、哺育→保育、蒸餾(溜)→蒸留、屍体→死体、白堊→白亜、雇傭→雇用、俘虜→捕虜、工廠→工場、などなど、膨大(←厖大)な数の漢字が日本で書き替えられてきたのです。「渋谷」の旧表記は「澁谷」ですが香港で繁体字に直すなら「澀谷」が最適(もちろん「澀穀」ではありません)。「涉谷」という誤記がなかなかなくならないのは「渋」が広東語の「涉」[siːp]と発音も似ているからかもしれません。駅に「Shibuya」と書いてあるのを香港人観光客は見ているわけですし。

「栃木」は、香港で書くなら「䗏木」でいいのです。「厂」の中身の「万」を「萬」に直せば済むことです。励:勵、蛎:蠣、などと同じなのですから。「とち」=「と×ち」すなわち「十×千」=「万」という計算式は、ちょー和風のウィットですけど。

大沢ぴかぴ

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