花樣語言 Vol.121 シャツをまくれば

2017/07/31

夏の中国には、シャツをまくり上 げて腹を出して歩くおじさんたちがいます。この「腹出しルック」について中国のメディア、今日頭条が書いた記事を日本の中国情報サイト、サーチナが伝えました。なにかと日本と比べるのが好きな中国のメディア、日本に腹出しオヤジがいない理由を公衆マナーの良さのほか、軽犯罪法を紹介して、日本で腹出しすると逮捕される可能性があるとしています。

花樣

サーチナの日本語の記事では、「シャツを捲る」と、「まくる」の部分が漢字になっています。「捲」は常用漢字ではないので、日本の公文書や新聞などでは普通お目にかかれません。なぜ、漢字にしたのでしょう。「まくる」と打つと「捲る」と変換できるから、でしょうか。もしそれだけの理由だったとしたら、確かにワープロ機能は漢字使用率を大いに上昇させていることになります。中国では簡体字になって以降、「捲」は「卷」に統合され、一切使いません。現在、中国にはシャツを捲ったオヤジはいますが「捲」という字は存在しないのです。香港にも、シャツを捲ったオヤジはいますね。香港には「捲」という字も、存在しています。

「捲閘」は、店などのシャッター。腹出しオヤジのシャツのように捲(ま)き上げるのです。「龍捲風」は、竜巻。「席捲」は、日本では「席巻」、これは前漢の『戦国策』に由来する有名な熟語です。「捲簾」は、カーテン、ブラインド類、または、巻き簾。以下、訳は省略しますが、捲尺、捲筒、捲舌、捲髮、捲土重來、捲入漩渦、風捲殘雲。一方、「卷」のほうは、試卷(答案用紙)、問卷(アンケート用紙)、案卷(記録文書)、これらは現在、巻物状になってませんが用語は古典時代のまま。「春卷」は、もちろん春巻き。「壽司卷」は、巻き寿司のこと。広東語では、牛肉乾(ビーフジャーキー)、餅乾(ビスケット)、魚生(刺身)、肉絲(細切り肉)、このように形状を表す形態素が後ろに来る語構造がよくあるのです。「捲壽司」と言ったら「捲」は動詞なので、「寿司を巻く」「巻き寿司を作る」。中華圏で好まれるお菓子は「蛋卷」。「卷蛋」なら、ロールケーキ。「瑞士卷」(スイスロール)とも。「花卷」は、饅頭に似た点心。なおこれらは、春捲、壽司捲、蛋捲、瑞士捲、花捲、と書くことも(主に台湾で)。

歴史的には、字の構成を見ればわかることですが「卷」のほうが古くて(『詩経』に出てきます、2千5百~3千年前です)、あとから手偏「扌」を付けたのが「捲」。巻くことを表します。日本語の訓でも「捲」は「まくる、めくる」のほか「まく」とも読みます。名詞の漢字に偏(部首)を付けると動詞になることは間々あって、「煽」(あおぐ)はまさに、扇で煽ぐ。「蝕」(むしばむ)は、虫が食(は)む。ちなみに「扇動」「扇情」は「煽動」「煽情」の書きかえ。「浸食」「侵食」は「浸蝕」「侵蝕」の書きかえ。台湾で「計劃」と「計畫」が混然と使われていることについて、「計劃」は主に動詞として使う、と主張する人たちがいるのは、「劃」に「刂」という部首が付いているゆえの発想ではないでしょうか。香港では名詞の「計画」も動詞の「計画する」もいずれも「計劃」で、「計畫」は使いません。台湾の「計畫」は日本の書きかえの影響である可能性が高いです。

「卷」は、日本の新字体(略字、俗字)では「巻」。下が「㔾」ではなくて「己」。「捲」も以前は「己」を使った「捲」が使われましたが、これはかつてのJIS漢字およびその先輩格ともいえる「朝日文字」(朝日新聞が率先して採用した表外字の略字)の、涜、鴎、掴、涛、などと同類です(拡張新字体、といいます)。現在は、常用漢字表以外の字にまで新字体を拡張しない、という文化庁の方針があるので、常用漢字の「巻」と表外字の「捲」では字体の統一性が失われているのです。中国の簡体字ではこういったことは起こりえません。例えば「龍」が「龙」である以上、「龍」を使った字は全て、泷(瀧)、袭(襲)、笼(籠)、宠(寵)、厐(龐)のようにするからです。日本では、竜、滝、襲、籠、寵。文字ごとに定めます。このやり方がもたらした最大の混乱は「しんにょう」の字で、常用漢字(道、通、近など)は略式の「一点しんにょう」(⻌)、そして表外字(辿、迄、辻など)は伝統的な「二点しんにょう」(辶)という本則に加えて「3部首許容」(⺬・⻞・辶→礻・飠・⻌)の条項によって一点も許容されているため、新聞社や出版社ごとにばらばらなのです。特に固有名詞でよく使う「辻」は、確かに一点の場合が多いのですが、推理作家の綾辻行人はペンネームの名付け親である島田荘司から賜った一点をやめてわざわざ二点にしています。前回の文章で、これが一点に変わっているのを校正の段階で気付いたのですが、あえてそのままにしておきました。ミステリマニアの読者がいたら気付くかなあ、という思いも込めて。

ところで、日本に腹出しオヤジがいないのは、腹が冷えるのは嫌だから、という理由もあると思いますよ。フーテンの寅さん、もーれつア太郎、バカボンのパパ、それにジバニャンも、腹巻きをしています。捲る、ではなく、巻く、です。

大沢ぴかぴ

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