花樣語言Vol.141英語と米語

2018/05/08

ウェブスターといえばアメリカの辞書。これを日本に最初に持ち込んだのは福沢諭吉だとされている。咸臨丸でアメリカに渡った際、同行したジョン万次郎とともに仲良く1冊ずつ買ったそうだ。編纂者のノア・ウェブスターはそれまでのイギリスの辞典になかったアメリカ独自の単語を大量に収録したが、つづりの改革ということもおこなっている。イギリス英語の「colour」や「centre」をアメリカ式に「color」「center」としたのもウェブスター辞典である。香港の英語は基本的にはイギリス英語なので、colour、centre、と書かれたものが多い。「SUBWAY」とあっても地下鉄ではなく地下道だったりする。でなければサンドイッチの店だ

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つづり字の改革、とはいっても、思うに、なぜこの程度のケチな改革だけでやめてしまったのだろう。英語は「name」と書いて「ネイム」と読む。だったらいっそのこと発音通りつづりも「neim」と改めるべきではなかったのか。knife、knee、knock、knight、などは語頭の「k-」が読まれない。なぜ取ってしまわなかったのか。ヨーロッパをはじめ世界の多くの言語では、かつてつづり字の改革で様々な書きかえをしてきた。日本語もそう。「思ふ」は「おもう」と言うようになったのだから、発音に合わせて変えた。思ふに、もとい、思うにウェブスターは、アメリカらしい辞書作りとはいっても、イギリスの英語と完全に訣別してしまうことは意図になかったのだろう。つづりを変えると、過去の文献や、同じ言語圏に属する他国の文章が読めなくなる。トルコやマレーシアのようにアラビア文字をローマ字に変えたら昔の本が全く読めなくなるので、大がかりな文字改革にはそれなりの判断と決意が必要なのである。明治以前の文献は現代日本人が見たらミミズがのたくったようにしか見えない。が、明治以前の文献を現代の一般大衆が原文で読まなければならないような必要性は特にない。

ところでなぜ「knife」には読まない「k-」が付いているのか。こういうことには、悲しいくらい多くの人が無関心だ。ナイフは、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語では「kniv」であり、「クニーフ」と発音している。「ひざ」はオランダ語だと「knie」で、やはり「クニー」である。英語も同様に、かつてはこれらの「k-」を発音していたのだ。音韻体系の変化によって語頭の「kn-」が発音できなくなって、それで話すときは「naif」と言うが、つづりは旧来のまま、昔の発音を表した「knife」(クニーフェ)と書き続けているのである。「name」もかつてはドイツ語と同じく「ナーメ」と発音していた。つまり英語のつづりは、日本語で例えるなら「旧仮名遣い」なのだ。英語の場合、今さらつづりを発音に合わせて全て変えたら次の世代からはシェイクスピアはおろかハリー・ポッターも読めなくなる。時すでに遅し。だから発音とズレたつづりを苦労して覚えなければならない。これはシェイクスピア以上の悲劇としかいいようがない。

クノールスープというのがある。この「Knorr」はドイツ語の人名なのでヨーロッパ大陸のゲルマン人は発音できるが英語話者は「ノーァ」と言っている。テレビのCMでは無理やり「ク・ノーァ」と読んでるようだが。和歌山県の人なら、クヌッセンをご存じであろう。和歌山県沖で火災を起こした日本船の船員を助けようと海に飛び込んで命を落としたデンマーク船の機関長「Knudsen」、この姓も北欧ゲルマンならではである。和歌山でクヌッセンといったらスーパーヒーロー、このつながりで2002年のサッカーワールドカップのときはデンマーク代表が和歌山でキャンプをしている。

「Mr.」「Mrs.」をイギリスでは「Mr」「Mrs」と書く。ピリオドを打たない。このことは、ものすごく多くの人が気づいていない。香港でも、政府の公用文書などは「Mr」「Mrs」だが一般にはほとんど「Mr.」「Mrs.」と書かれる。深水埗界隈をフィールドワークしてみた。クリニックに書かれている医者の名前で1か所だけ「Dr」を発見、ほか数十軒はみな「Dr.」だった。これはアメリカ帰りを表しているわけでは全くない。香港の医者は、ご丁寧に大学名を目立つところにでかでかと書いているのでわかるだろうが香港大学やイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランドなどの大学のタイトルである。看板屋が勝手にみんな「Dr.」としてしまうのかもしれない。医者たるもの、点のひとつぐらいあってもなくても気にしない、って感じか。シャーロック・ホームズの本もアメリカの出版社だと「Mr.Holmes」と点がある。「Mr.Bean」はイギリスでも点があるのだが、彼はファーストネームを「ミスター」、苗字を「ビーン」としたことがあるので、腹の内の読めないお人である。

戦前の日本のプロ野球に「太洋軍」というチームがあって、のちに「大洋軍」と改名している。太→大。野球だけあって、「点を取る」というゲンかつぎ。(マルハの大洋とは別の球団である。)イギリス英語の「Mr」「Mrs」「Dr」は英語教師でも知らない人が多いと思うので、テストでこう書いたら「減点」されるかもしれない。そうしたらこう言ってやったらいい。テストだから、点を取りたかった。

大沢ぴかぴ

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