花樣語言Vol.142 読めない、書けない

2018/05/24

「スペリング・ビー」という、単語の書き取り競技があって、アメリカでたいへん人気だ。ウェブスターのつづり字教本に触発されて始まって、かれこれ200年の歴史がある。会場には蜂の絵が貼ってあったりして、ビー(bee)が蜂と解釈されていることがわかる。だからスペリング・Aとかスペリング・Cというのはない。

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が、この「bee」は古風なアメリカ英語で、「会合」とか「集まり」を表す。「sewing bee」なら裁縫の集い、「apple bee」なら干しリンゴ作りの寄り合い。ウェブスター系の辞書でも語源は「蜂」とは別としている。けれどもそんなことは問題にもならないようで、おおらかな雰囲気の国民的イベントなのだ。ムーミンの舞台がフィンランドか否かをめぐって侃侃諤諤となったセンター試験とは大違いもいいところだ。

蜂の「bee」はかつてイギリスで「be」と書かれたことがある。「cheap」は「cheep」と書かれていた。発音通りにつづられていた英語が運命の大転換を迎えるのが印刷技術の登場で、これを機に英語のスペルは固定化、凍結されることになる。不運だったのは、英語はその直後に発音が著しく変化、つづりとの差が大きく開いてしまった。現代人が目にしている英語のつづりは500年以上前の発音を映したものである。ただし、それだけなら何とかなった。なぜなら音韻変化というものは無意識のうちに、規則的、法則的に起こるからである。bee、see、he、me、などの「ee、e」は一律「ベー、セー、ヘー、メー」から「ビー、スィー、ヒー、ミー」と変わっている。そして、bed、set、pet、pen、のように閉音節の場合は「エ」のまま。同様に、time、like、I、pine、などの「i」(イ)は「ティーメ→タイム、リーケ→ライク…」と一律「アイ」に変わって、tip、lip、it、pin、などは「イ」のまま、なのである。ピコ太郎レベルの英語で解釈できる。

グーテンベルクの活版印刷によって大量に出回るようになったラテン語の書物はイギリスにも渡ってきた。本物のラテン語を目の当たりにした知識人は、それにならって、debt、doubt、のように「b」を無理やり英語のつづりに付け加えた。それまでラテン語系の外来語は全てフランス語を経由して入ってきていたため、英語には最初からこんな「b」などなかったのだ。輸入元のフランス語ですでに発音していなかったからで、後にも先にもイギリスでは「借金」がデブトゥ、「疑う」がダウブトゥと発音されたことはない。rhythm(リズム)なんていうつづりは知ってる者が見れば一目でギリシャ語起源だとわかる。ところが、rhyme(ライム、韻)は違う。これはフランス語では「rime」であり、ギリシャ語起源ではない。昔の誰かが、リズムと似ているライムもギリシャ語だろうと間違えたのだ。あるいは、わざとギリシャ語っぽく捏造したのかもしれない。英語が死守している「伝統」あるつづりには、ラテン語ギリシャ語にあこがれた、いにしえのインテリどもの夢の跡まで残されている。

「sea」ももとは「see」だったのだが、「ea」はいったい、いくつの読み方にふくれあがったのか。bean、bear、hear、heard、heart、head、meatus、Neapolitan…。あちこちにある「Hearst」のような地名は、それぞれの地元の人に聞かないとご当地での読み方がわからない。テキサスの「ヒューストン」とニューヨークの「ハウストン」はいずれも「Houston」であり、書くと区別がつかなくなる。そう、英語のつづりはすでに、漢字に近いレベルにまで、表音能力が落ちているのである。「東」さんは「ひがし」なのか「あずま」(あづま)なのか、本人に聞かないとわからない。また「あずま」さんは「吾妻」かもしれない。「本町」は「ほんちょう」か「ほんまち」か、地域により異なる。1980年代、香港で『ゴーストバスターズ』が大人気だった。その縁かどうか知らないが一昨年のリブート版にはチャイナタウンの香港レストランが出てくる。個人的に印象に残っているのが、「ヒッタイト」という単語をアメリカ人が読めない、というシーン。当然「Hittite」とつづることもできないだろう。だからスペリング・ビーのような競技が成り立つのである。要は漢字の書き取りと同じなのだ。中国語も、「赫梯」と書くということを知っていなければ書けない。フィンランド語なら、発音とつづりを一対一で完全に対応させているので、書き取り大会をやったら全員が満点を取ってしまう。日本語はカナ書きがあるので、「ヒッタイト」と書けるし読める。たとえ、ゆとり世代でこの歴史上の国名を知らなかったとしても。

アメリカ人はめちゃくちゃなつづりをむしろ楽しんでいるようにも見える。日本人も難解難読の漢字を楽しんでいる。漢字廃止論者が超少数派なのと同じで、英語のつづりの改革論者も「rhyme」を「rime」に直そうなどというケチな主張がせいぜい。「raim」にしようという発想が出てこない。シェイクスピアの時代、発音はすでにつづりと大きくズレていた。かの文豪はそれを認知していたはずだ。なのにつづりを改革しようとはしなかった。シェイクスピアが残した最大の悲劇は英語のつづりだ。喜劇、なのかもしれないが。

大沢ぴかぴ

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