花樣語言 Vol.148「ん~?」

2018/08/22

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サッカーワールドカップでフランスが優勝して、19歳にしてチームの要、Mbappéが一躍有名になった。彼は日本語で「エムバぺ」と書かれていたが、去年のサンジェルマンへの移籍以降「ムバッペ」とされることが多くなった。それが今回のワールドカップを機にまた「エムバぺ」に戻った。するとまたケチが付いて、ムバぺだ、いや、エンバぺだ、いや、ンバッペだ、いや、ンバぺだ、いや、バぺだ…という状態になった。こんなことをやっているのは日本だけだ。

Mbappéの父親はカメルーン出身の移民である。サッカーのカメルーン代表には「Mbia」という選手がいて、今、中国のプロチームに来ている。フランス語では「エムビア」、日本でも「エムビア」だ。かつてガンバ大阪に来た「Mboma」も「エムボマ」だった。アフリカの地名人名に「Mb~」というのは多い。セネガルの「Mbacké」、赤道ギニアの「Mbini」、スワジランドの首都「Mbabane」、南アフリカの大統領「Mbeki」、日本ではこれらをムバッケ、ムビニ、ムババネ、ムベキとし、フランスその他ヨーロッパ諸国では語頭の「M」(エム)をそのまま読んでエムバッケ、エムビニ…とすることで、この「難読つづり」をさばいているのである。チャドの首都「N’Djamena」は日本の地図帳で「ンジャメナ」だが、かつては「ヌジャメナ」とか「ウンジャメナ」だった。フランス語では「エンジャメナ」と「エ」を付け、日本語では「ウ」を付けて、読みやすくする。「ん」を1字だけで読む場合に「うん」と発音することは多い。NHKの「日本人のおなまえっ!」でも「ん」の特集のとき司会の古舘一郎が「うん」と言っていた。

「ン万円」と書いて、ウン万円と読まれる。「エムバぺ」もこれと似たようなものだ。読み方の習慣であって、「誤読」ではない。彼はフランス人であり、フランスの国籍法によって人種の違いによる別扱いを受けないことになっている。「エムバぺ」で問題はない。[h]が発音できないフランス語圏では「林」さんは「アヤシ」という怪しい発音になるが、がんばって「ハヤシ」と読んでくれる人もいる。フランスのアナウンサーは(わたくしの見た試合では、がんばって)「ンバぺ」と言っていた。感謝に値するサービス精神は存在するが、ヨーロッパでは人に発音を強要することはできない。

「Xavier」という名前は言語によって、ハビエル(スペイン語)、シャビエル(ポルトガル語)、グザビエ(フランス語)、イグゼイビア、ゼイビア(英語)、クサーバー(ドイツ語Xaver)。こういう環境に慣れているヨーロッパ人は自分の名前を多少違って読まれても文句は言わない。だから彼らは、「Mbappé」も「日本語式に」読んだらいい、と言うだろう。「ムバッペ」と「ッ」を入れることに文句を言う日本人がいるが、「ニッポン」を「Nippon」と書くのが「日本語式」である。「ッ」を入れるなというほうがムリなのだ。内閣告示「外来語の表記」(平成3年)には、「ッ」の使い方の例で「ロッテルダム」(Rotterdam)が載っている。が、オランダ語の発音を表すなら「ロテルダム」で十分なのである。ちなみに「Xavier」は日本ではかの高名な宣教師「ザビエル」である。

正しく書こうとする人たちは、えらい。だが、カギは「正しさ」ではなく「慣用」にある。「外来語の表記」にも、こうある。「外来語や外国の地名・人名は、語形やその書き表し方の慣用が一つに定まらず、ゆれのあるものが多い。…ここに示した語形やその書き表し方は、一例であって、これ以外の書き方を否定するものではない」。慣用には、「寛容」であるべきなのだ。ヴァイオリン、ヴィクトリア、などのヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォについても、「一般的には、バ、ビ、ブ、べ、ボ、と書くことができる」と書いてある。また、「シンポジウム」を「シムポジウム」と書くような慣用もある、と書いてあるので、「エムバぺ」を無理に「エンバぺ」とする必要もない。ンジャメナ、ンビニ、ンビア、ンバぺ…と書くべきか否か、この判断は難しい。「外来語の表記」には語頭の「ン」についての記述はない。んまい(美味い)、んだ(そうだ)、んま(馬)、んめ(梅)あたりから類推してもらえるかどうかだが…。んなもん読めるか!…って?そう、まさにその「ん」なのです。

鼻音「ん」の音声は、両唇音[m]、歯茎音[n]、軟口蓋音[ŋ]、口蓋垂音[ɴ]と多様だ。後続の音の種類によって、日本語話者は無意識のうちに使い分けている。広東語では、[m]と[ŋ](ng)が単独で1音節を構成できる。前者は否定詞の「唔」、後者は「呉、五、午、誤…」などたくさんあったが現在、香港のほとんどの人の発音では両者は統合して[m]だけである。まれにアナウンサーなどで[ŋ]を使う人がいるという程度だが、英語で書くとき、「呉」姓は「Ng」とつづる。呉孟達=NgMangTat。日本ではこれを「ン・マンタ」と書いた。(往年の香港映画マニアは必ず「ンー・マンタ」と伸ばして言っていた。)呉耀漢「RichardNg」は『Mr.Boo!』や『五福星』で早くから日本で知られていて、当初は「リチャード・ウン」と書かれた。呉姓で世界的に有名なのは監督の呉宇森だろうが、彼は英語名を「JohnWoo」としている。映画監督が「Ng」(NG)では、確かにシャレにならない。

 

大沢ぴかぴ

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