深センものがたり 第31回

2021/02/03

waya title〜 深センの歴史 〜

 

 シリーズ“深センの歴史”では、古代から現代まで深センの歴史を時代別に述べてきた。今回は総集編としてまとめてみよう。

 深センから河源にかけて多くの恐竜たちが棲息した6700万年前。実は恐竜天国だったのである。

 新石器時代(6700年前)にはすでに人類の集落が存在した。

 王朝初期の「夏」や「商」の時代(紀元前1000年~2000年)は、百越(ひゃくえつ)部族の支族である南越部族の居住地であった。

 

 

 

 sinnsenn

 

 宋時代の深センは南方海上交易の重要な拠点となり、製塩業や米・茶葉栽培、香料で繁栄し、元時代には真珠の産地として名を知られた。この時代から深センは商売が盛んだったのである。

 明の時代、「深圳」という地名は1410年の史書に最初に登場する。この地域は川や沼が多く、村には深い溝があった。客家族の方言で田畑の溝は「圳」と呼ばれていたのでこの地名になった。

 

 清時代の末期になると香港島及び九龍半島をイギリスが租借するようになり、香港との国境の街としての歴史が始まった。深セン墟市(定期的に市を開く町)は現在の東門街である。

 1907年、イギリスは広州から深センまでの鉄道を建設。広州大沙頭駅から珠江東行に沿って、石龍、樟木頭(共に現在の東莞市)を経て新安県(現在の深セン市)までの区間である。1911年、香港九竜から深センまでの現在の九広鉄道が完成した。羅湖駅の設備はとても粗末で、4つのベンチを並べた切符売り場兼待合室だけだった。当時、毎日100人前後の旅客だけが駅を利用した。

 广九铁路通车

 

 1949年10月、中華人民共和国成立後、深セン鎮人民政府が成立。1950年代から九広鉄道や幹線道路の拡充によって深センの人口も大幅に増え、商業都市としての基盤が生まれつつあった。

 

 1979年、深セン市に昇格。1980年、国家の改革開放路線により、深センは中国初の“経済特区”となり、世界でも有数の異例のスピードで経済発展してゆくことになる。隣接する大都市香港が存在したことも大きな要因だ。改革解放の波に乗って地方から多くの労働者がやってきた。そして続々と海外企業が投資を開始。

 ※当時の深セン羅芳村の一人当たりの年収は134元。対岸の香港新界羅芳村は一人当たりの年収が13,000元(約100倍)。30年後の2010年、深センの羅芳村は繁栄を続け、収入も香港羅芳村をはるかに超えてしまった。

 1981年深圳还有耕牛在此踱步1983年华强北。

 

 1988年、東京の秋葉原をモデルとした賽格電子部品市場がオープン(現在の華強北)。この電気街はその後大きく成長し、深センの象徴となる。台湾の鴻海科技集団(フォックスコン)が深センに進出したのもこの頃である。

 深圳ものがたり地王建設90代

 

 1989年11月、筆者が深センへ初上陸。水牛の群れが深南大道を歩いていた辺境の地が、国家経済のモデル都市として、僅か20年余りで急激な成長を遂げ、IT産業では米国のハッピーバレーも凌駕する大都市になるなど、当時は想像もできなかった…。

 


宮城 紀生深セン在住20年のベテランコンサルタント
宮城 紀生
miyagi@waya.net.cn
 
 
 
 
 
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