殿方 育児あそばせ!第23回

2022/01/05

殿方育児あそばせ

 

家族の帰国と新たな出発2020

2020年3月1日、日本から私1人だけで広州へ戻って来た。スクリーンショット (201)

1ヶ月ぶりの我が家。家のリビングのテーブルに置きっぱなしの、妻が春節に体育中心の花市で買った胡蝶蘭は、太陽の光を浴びながら元気に背筋を伸ばして待っていてくれた。スクリーンショット (202)他は、家族で2020年1月29日に出発した時のままであった。コロナ感染拡大に伴い「明日の便で一時帰国せよ」との指示を受けて、慌てて荷物をまとめて家を出たあの時のままだった。娘のランドセル、机に広げたままのノート、かけっぱなしのタオル。それらを見ると、なんだか家族で住んでいた頃の情景が浮かび、めちゃくちゃ寂しい。

やがて1日目の夜を迎えた。4LDK……この広さと静寂さよ。これには流石に耐えられなくて、日本にいる家族へWechatビデオコールをする。娘達の笑顔にも癒され、心温まるホッとする時間も束の間、電話を切ればまた静寂の中に1人。4LDK……広過ぎて、誰もいないのに、誰かがいそうな気がするのだよ。4LDK……長い廊下、奥の部屋の暗闇が怖過ぎるのだよ。遠慮なく全部電気点けてやったぜ。やはり家は広ければいいってもんじゃないね。こりゃ1人で住んじゃダメな広さだ。
ちっ、こんな夜は酒でも飲みてーぜ!と思ったが、当時は2週間自宅隔離がルールだ。初日だし、そもそも隔離中だし慎ましく過ごすか……。そんなこんなで単身生活はスタートした。スクリーンショット (203)

スクリーンショット (204)さて、家族だ。妻も娘達も暫定的な帰国だった為、日本では不便な暮らしをさせてしまっていた。早く広州に戻したいが、日本人学校の登校日も何度か延期になっていて、再開日は未定のままだ。そのうち中国への入国さえもどうなるかわからない、世の中が混沌としていて、何が正解かわからない状況の中で、仕事、家族、色々と不安な時期だった。誰もがそうだったと思う。
とりあえず私は広州へ戻ることが叶い、また皆と仕事ができることだけでも本当に有難かった。

当時、緊急事態宣言が出た日本でも、学校の春休みが延長されていた。とは言っても、広州に戻れないのなら、戻れるまでの間はどこかの学校に通わせなければと焦ってくる。
当時の娘達は4月に学年が上がって、中3と中1となっている。私は広州から遠隔で、妻は地元から学校を探した。
探したのは娘が通う学校だけではない。元々転勤族だった私達は、日本に住む家も車もなかったので同時に探すという忙しい時期をむかえていた。
交渉した中学校1校目は、感染が拡大している中で、転入生の受け入れができない状態ということで断念。
2校目に問い合わせをしてみる。私の母校だ。妻に教育委員会に連絡してもらい話を聞いた時、校長先生の名前を聞いて驚く。何と25年前に私の担任だった先生が校長先生へと出世していた。私を覚えてくれていた先生のご理解もあり、入学が決定。時を経て親子でお世話になる偶然と、さらに長女の担任の先生は、義妹の友達であったこと。地元の友達や先輩が、制服や運動着の手配に協力してくれたこと、中国からの転校生である娘達が、安心して登校できるように気を廻してくれたこと。様々なご縁により5月から無事登校することができた。
そして、長女が受験生ということもあり、8月になっても目途が立たない広州戻りは諦めることにして、日本人学校は退学とさせてもらった。娘達の荷物を受け取りに1人で日本人学校に行った時は、娘がいた頃の思い出が蘇って、せつなかったなぁ。
そんな2020年を振り返ってみると、辛い時もあったが、一歩踏み出すことで様々な人と出会うことができた。人と人とのめぐり逢いから、今ここで実体験を書かせてもらっている奇跡に感謝したい。
そして娘へ。英語弁論大会の出場決定おめでとう、広州から応援しているよ!
おしまい。


photo ryu prof

 

赤林 龍

広州生活2年8ヶ月。
1983年1月31日生まれ。山形県出身。長女は高校1年、次女は中学2年の娘二人。元広州で今は日本在住。育児のモットーは、抱っことハグは大事、絵本の朗読は俺の出番、大人買いというものを見とけ、ゲームもLINEもたくさんやって学べ。そんな親父だから娘達は案外しっかり育っているのかなぁ(笑)

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