エッセーの瀬!Vol.130「読書の話」

2022/09/07

essay (2)

~在中邦人の感賞的後日談~
音楽、文藝、料理、絵画…世の中のありとあらゆる藝術を、市井の目線から解いてゆく…
気鋭のライター4人が送る痛快リレーエッセイ


私の、読書について

「読書の秋」がなぜそのように言われるようになったか、詳しく知らない。多分、夏の暑さも和らぎ、読書に適した気温となるからだと聞いたように思う。そうなれば、ここ広州には永久に読書の秋はやってこないだろう。来るとすれば、それは「読書の冬」となるかもしれない。まだしばらく読書の冬は来ないが、読書の話をさせて頂こうと思う。スクリーンショット (1777)

私、イゴッソ・YOSHIDAは本の虫である。前にも同じことを書いたことがあるように思うが、もっぱら電子書籍が多いのでデジタル・本の虫といったところだろう。朝目覚めて一読、移動中に一読、休憩中に一読、食前に一読、食後に一読、寝る前に一読――日々、コツコツと読み進めてきた――ここ10年で読んだ数は気づけば1,000冊を超えていた。この数は、見る人によっては多く、見る人によって或いは、少なく見えるだろう。全く読まない人、1年に数冊読む人、そして、多読の人がいる。上には上がいるのが世の常で、多読の人々の中には、2、3年でこの数を超える人もいるという。伝説的な経営者の孫正義氏は、過去の闘病経験中に私が10年で読んだ3倍の冊数を、しかも3分の1の時間で読み切ったと聞いたことがある。

私の多読は年々加速を続けているが、読書はこの先、私をどこへ連れて行くのだろうか。仮に1,000の紙の本を積み重ねていくと――たまたま私の手元にある本が約2センチメートル――実に20メートルの高さに達する。これは建物の7階くらいになるだろうか。(ちなみに私が読んだ本の6割は電子書籍だが……)これを100メートル、200メートルと積み上げていく先に何が見えるだろうか。

私の人生に、読書は役に立ったのだろうか――私がなぜ読書を始め、多読となったかというと、ちょっと恥ずかしいのだが、学生時代に失恋した女性に認めてもらえるようになるという願いのためであった。人格的、経済的に、世間的に、いわゆる成功者となりたかったのだろう。その女性と幸せな人生を送りたかったという思いがある。その根底には、自分自身が幸福になりたいというものであったことだろう。今では私は、その女性とは全く関係ない場所で生き、全く関係ない人となった。それなりの幸福感を覚えつつも、思い描いた成功者像とは大分違う人物となった。しかし、この多読の習慣は今も続いている――ビジネス書、自己啓発書、マネー、小説、美術、ファッション、音楽、料理、語学、歴史、伝記、漫画、攻略本、オカルト――さまざまな本を手にした。読書を始める前のあの頃と今では、まったくの別人となったと言えるであろう、または、別の側面が現れたと言った方が、より近い意味合いになるかもしれない。

成功と幸福。つい今しがた読み終わった、マインドフルネスの本によると世間的に成功者と呼ばれる人物像――私が過去に思い描いていた人格的に、経済的に、世間的に認められた――人々は必ずしも幸せを感じていないということだった。すべてを手に入れたように見える彼らでも、凡人と同じように終わらない仕事や職場の人間関係、家族との関わり方、健康やお金について苦悩しているというのだ。世間的な成功と自分自身の幸福とは別物であるということだろうか。私が読書に費やした時間、これから費やそうとしている時間は――それとも、ただの無駄だったのだろうか。それは、この先いつか私が死んだときにやっとわかることだろう。その時まで、読書が血肉となり幸福をもたらすことを切に願う。

メモ:つい今しがた読み終わった本【世界中の億万長者がたどりつく「心」の授業 すばる舎2018年12月13日 著者 Nami Barden/河合克仁】


スクリーンショット (1551)

イゴッソ・YOSHIDA
訪中歴10年後半のベテラン選手。広州が大好きで日本に帰りたくない派である。仕事で訪れた中国の都市は数えきれないが、仕事以外はいつも家にいる。趣味は、ゲーム、読書、音楽鑑賞、ガンプラ、外卖など生粋のインドア派。個人的にヴィジュアル系ロックバンドの波が来ている。封鎖式管理を機にVR(バーチャルリアリティー)に乗り出しインドア派レベルを上げた。

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