深センってどんな所?【コラム:深セン物語】

2023/01/04

スクリーンショット (2336)2023年1月元旦、深センで徒然(つれづれ)なるままに、、、
徒然(つれづれ)なるとは、思いにふけることである。
まもなく春節がやってくる。
新しい年の始めの月である1月の別称は、初春月、正月、睦月(むつき)、それ以外に、太郎月(たろうづき)とも呼ばれている。

「太郎月より酒こちて、三郎月までゑひくらし」
正月から酒をくらい、3月まで酔っ払いの生活…そんな生活もいいかもしれない。

深センとは
深センの移り変わりを89年から見てきた。
「深センってどんな所?」、の答えが時代と共に異なるのは街が常に変化しているから。
90年前後、水牛が歩く田園地帯、農村の若い娘が工場へ出稼ぎにくるところ
90年後半、粉塵舞う騒音の地、農民が出稼ぎして力仕事するところ
2000年代、急速に発展したカオスの街はスリや強盗だらけ、ニセモノ・ケータイ天国
2010年頃、香港や上海と競う都市、平均収入が中国で一番
2015年頃、世界に誇るイノベーション都市、世界一のスマホ天国
2021から22年頃、ゼロコロナ政策が成功している街

住めば都というけれど…
90年前半、地方から大勢の人々が出稼ぎに来た。真っ黒に日焼けした男たちは道路や建設工事の作業員。ほっぺが赤いおさげ髪の10代の女工さんたち。男たちは電線にとまる雀の群れのように道路の分離帯に座り、日雇い集めのトラックを待つ。イミグレを出ると強引な荷物持ちや物乞いたちに取り囲まれる。公衆トイレと街の散歩はとてつもない勇気が必要だった。
ある日本人がインクの残り少ないボールペンをホテルの部屋のゴミ箱に棄てて帰国。その後に日本の自宅へそのボールペンが送られてきたという逸話がある。客室係りの女性が忘れ物だと思ったらしい。純朴な人たちも多かった。住めば都というけれど、住むことなど想像もできない街だった。

ここは大阪や
青春を大阪で暮らした筆者は、2001年から深センの雑居街のアパートに住み、“大阪と同じや”と感じた。朝は「今から仕事か?」、夜は「メシ食うたか?」と、大家や住人に声掛けられる。メシ屋のオヤジは、「おう!」しか言わない、「まいど!」の感覚だ。ケガで脚を引きずり歩いていると、「どうしたぁ?」、「病院教えたろか?」と心配してくれた。
近くに日系スーパーができた時に、「日本製炊飯器売ってるか? 故郷の土産にするねん」とか「店員は中国語通じるか?」とか、ボケをかまされた。いささかおせっかいな庶民だったが、当時は人情味溢れる“大阪風の下町やった” 。

出会いと別れ、そして再会
深センでは、今まで数多くの出会いと別れがあった。いつかこの街に戻りたいと望む人は多かった。一昔前、駐在仲間の送別カラオケで、諸先輩方が肩を抱き合い、涙を流しながら、名曲「朋友」を熱唱する光景は胸にしみたものだ。
最近の再会話しに、「10年ぶりに深センへ戻ってきたぜ」、「えーっ?〇〇さん、よく生きてたね~」、まだ生きてた知人との再会は嬉しいものだ。
ところで、なぜこの街を気に入っているのか、誰に聞いてもわからないのが不思議である。

“春よ来い、はやく来い♪”
春が来ると共にそろそろコロナも消えて無くなってくれ…


宮城 紀生深セン在住22年のベテランコンサルタント
宮城 紀生
miyagi@waya.net.cn
 
 
 
 
 
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